「現代文単語/キーワード」に関する参考書について、今のところのベスト

 

 私が高校生だった頃は意識したこともなかったのだが、世の中には「現代文単語」とか「現代文キーワード」とかいう参考書がある。Z会の『現代文キーワード読解』の初版が2005年で、これがかなり初期のものなのではないかと思うのだが、だとすれば、やはり私が高校生だった頃にはまだそれほど知られたものではなかったのではなかろうか(特に、片田舎の昔ながらの進学校には)……と思ったら、『MD 現代文 小論文』という「これまでの辞書とはまったく違う」やつが1998年初版だった。しかしこの本さえ、もう「現代文」の参考書としては古い……。説明するまでもなかろうが、内容としては、「現代文」の入試などに出題される「評論文」に頻繁に用いられる概念や、小説の読解に必要となる背景にある概念を説明している参考書だ。今では学校でも副教材として広く買われているようだが、おそらくこうした教材が生まれる前は、先生方が社会科学・人文科学の教養を駆使し、授業中に(生徒目線では)雑談的に繰り出される知識がその役目を担っていたのだろう。

 

 しかし、これら参考書がなかなか使えない。そもそもそれなりの読解力と最低限の知識がなければとっかかりがなさすぎて自学自習に向かないという生徒目線の問題はまだしも、社会科学・人文科学の教養を備える我々からすれば、それら参考書の説明は簡便で一義的すぎて、評論における幅広い・慣習的な用法に対応できない。そもそも「これが載ってないの!?」というものが多すぎる。例えば、今は「原理主義」のまともな説明をどこからも見つけられないし、「新自由主義」を満足できる程度に説明しているのは筑摩書房の『評論文キーワード』くらいだ(もちろん、すべてのこの類の参考書を見たわけではないが、結構見た)。筑摩書房評論文キーワード』は斎藤哲也といういろいろと目にする人物が編著者としてクレジットされているが、結構なこの類の参考書にはそうした名前もない(『MD 現代文 小論文』には予備校講師に並び大澤真幸の名もあるが……)。

 

 というわけで、今のところは筑摩書房評論文キーワード』がベストと感じている(しかも手元にあるものは改訂前のもので、最近改訂版が出ており、少なくとも悪くなってはいないだろう。ところでやはり、「現代文」の参考書であるからには、改訂され続けなければ困る)(しかしこの本には、タイトルのとおり小説の語句に関するページはない。必要ない、というのが私個人の感想だが……)。しかしこれも、最初に書いた生徒目線の問題もあり、扱いはなかなか難しいものである。

行き場としての死者とまだ生まれていない者――諏訪敦彦『風の電話』

風の電話

風の電話

  • 発売日: 2020/10/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

諏訪敦彦監督の『風の電話』を観た。広島の原爆の物語から始まり、父親のいない(おそらく死んでしまっている)高齢出産、性的暴力未遂、難民の物語(日本の入国管理の問題)、そして東日本大震災の傷へと繋がっていくストーリーは、社会的に過ぎ、荒削りに過ぎるようにも見え、モトーラ世理奈の荒削りな演技もあり全体としても荒削りな仕上がりと見えたが、モトーラ世理奈の周囲を固める俳優陣によってなんとか見られるものになっている。映画としての完成度はこのように感じたが、しかし、重い社会的テーマを織り込んでいるために、非常に、考えさせられもする。

原爆や、性的暴力や、「入管」の問題や、東日本大震災(故郷の喪失、家族の喪失、生きる意味の喪失)。これらは映画の中で、行き場のない感情として描かれていた。言い換えれば、誰かのせい、というようには描かれていなかった。それらは降りかかり、しかし誰かによってではなく(性的暴力でさえ、そこから助け出す男の方に焦点が移り、加害者たちは画面外に去り、思い出されることもない)、ただ哀しみを彼らに残す。ヒロインに自死の匂いが付き纏うのも、(単に彼女がモードなエモさを纏っているからではなく、)その行き場のなさが、自身に向かうからだろう。

考えさせられるのは、では、きちんと「加害者」に向き合うことが、では倫理的に正しいことなのか、ということだ。これは難しい。それは、法的な解決に繋がるかもしれない。しかし、それで済むことばかりではない。曖昧な言い方になってしまうが、「加害者」とは人である以上、「被害」と「加害」の関係の解消が、その解消だけで済んでしまうとは、限らない。

その行き場として映画に描かれたのが、おそらく死者の(そして、まだ生まれていない者たちの)空間だった。喪失を、傷を抱える彼らは、死者や、胎内に宿った命に、語りかける。

私たちは、あの日から、いろいろなことに怒りを表したり、希望を抱いたりしてきたけれど、実は、行き場のなさを、見出された「加害者」や「被害者」に様々な形で向けていただけなのではなかろうか。法的な解決(あるいは、「実際的」な解決かもしれない)は無論重要だけれども、きっと、それだけでは済まないから、終わらないのではないか?

映画で彼らは、死者や、まだ生まれていない者に語りかけるが、もちろん返答はない。しかし、それが重要なのだろう。彼らは物を言わない。しかし、生きている者は、死者を、まだ生まれていない者を、思い出し、思い描くことができる。作中には、自死を匂わせるヒロインに「死んでしまったら、誰が家族を思い出すのか」といった台詞があった。ここに描かれた生きることとは、死者に、まだ生まれていない者に、語りかけることなのだ。

そして、返答はない。そのことの意味とは、生きている者が、返答を求めて語りかけ、語ることが、そのまま、物語(ストーリー)となっていくことである。大槌町にあるという「風の電話」で「行方不明」の家族に話しかけるヒロインは、「元気?」などと問いかけながら、もちろん答えはなく、一人語り続け、やがて、生きることを語る。生きる、という結末へ、自らを物語り、物語をその結末へ、導くのだ。

これは、堅固な宗教を持たない生者が、喪失と向き合う生き方の一つの方法だろう。いや、あるいは、喪失とは、堅固な宗教などではどうにもならないような、極めて個人的で、個人的に乗り越えなければならない、重大な問題なのかもしれない。

信じる/ない——今村夏子『星の子』

星の子 (朝日文庫)

星の子 (朝日文庫)

 

 

「うそいわないで」
「うそじゃない。容器の裏引っくり返して見てみろ。おれのサインが入ってるのは中身全部水道水だ」
 母が段ボールの中から一本取りだし、容器を逆さにすると、そこにはマジックで大きくゆ(まるに囲まれたゆ、引用者)と書いてあった。
「帰れーっ!」
 父が悲鳴のような声を上げた。そのときはじめて父の怒鳴る姿を見た。顔も目も真っ赤になって、わたしは父が大声で泣きだすのではないかと思った。

落合さん夫婦の耳に入らないわけがない。知らないわけないのだ自分の息子がしゃべれることを。そしてひろゆきくんも、自分の親が知らないわけがないことを知っている――。
 ふすまの向こうで、父と母がささやくような小さな声でお祈りのことばを唱えはじめた。

信仰の一つの在り方を精密に描けているように感じられる。つまり、醒めた目で、本当にはそうではないと知っていながら、心の底からそうであると信じているような。信じたいけど信じられないとか、表面上信じているとか、そういうのではなく、相反する視線が同時に向けられるような、そんな心理の在り方。そしてこれは、信仰だけの話ではない。主人公と高校生の姉まーちゃんが、「好きな子」についてこんな会話をする。

「どんな子?」
 当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。
「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」
「へーかっこいいね」
「まーちゃんは」
「いるよ」
「どんな人」
「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」

 「最低な人」——まーちゃんは、おそらく、彼が最低の人だと、醒めた目で見ながら同時に、愛してもいるのではないか。信仰や恋愛は、かくも不確実で儚く、しかし、このような心理の在り方はおそらく、人の生に欠かせないものなのだろう。

追記:
この小説は、先生の話のシーンが巧みだ。だらだらと書かれた鍵括弧を読み飛ばそうとすると、生徒である主人公と同時に、話を聞けと先生に叱られる構造になっている。これはうまい。
あと、帯のあおり文なんかは結構暗い感じなのだが、なかなか明るく気持ちのいい小説だと、私には感じられる。

Google Earthで『土佐日記』を追う

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暇つぶし、ではなく教材研究の一環として、Google Earthで『土佐日記』に登場する地名をチェックしてみた。そんなに凝ったものではないし、旅程は教科書や資料集なんかにも図入りで載っていて、特に新たな発見があるわけではないのだが、行ったことのない土地の様子を、しかも時代も超えて想像してみるのは多少楽しいものであった。個人的には、高知大学田舎にありすぎ、大阪大学大阪市にあるんじゃないんかい、といった新たな発見が。『土佐日記』に関しては、「松原」が二カ所あるのがおもしろいといえばおもしろいか? kmlファイルという謎のファイル形式でエクスポートできたので上げておく。こちらGoogle Earth→プロジェクト→新しいプロジェクト→kmlファイルをインポートで開けるはず。

去年、『土佐日記』の教材研究をしてみて初めて知ったのだが、かの有名な冒頭の一文「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」の解釈には異説があるそうだ。この文は伝聞・推定の助動詞「なり」と断定の助動詞「なり」の判別を覚えるのに都合がよいとされており、つまり、「すなる」が「するという」、「するなり」が「するのだ」で、ひらがな文学の創造のために貫之が女性に仮託して〜なんてのが、学校で習う『土佐日記』である。しかし小松英雄氏によれば、冒頭の1文は「男もじなる日記といふものを、女もじでみむとてするなり」であり、つまり男文字(漢字)でなされる日記というものを、女文字(平仮名)で試みよう、なんて意味になるという。そうなると後段の「ある人」は何だ、という話になってもくるのだが、これもなかなかおもしろいというか、すっきりしてしまうというか。この話は、混乱させてしまうだろうなぁと思い授業では話さなかったが、『古今和歌集』「仮名序」の筆者でもある貫之の平仮名への思いの強さが感じられるような。などなど、千年の古典なだけあって、『土佐日記』にはおもしろい話がつきない(『新古今和歌集』の藤原定家が臨書する話とか、文学者・定家の思いを想像すると熱い気持ちになる)。

「オンライン授業」についてのメモ(コロナ禍で)

オンライン授業について。様々なアプリケーションやサービスが用意されているのだが。一つ思うのは、それらを使って、従来の授業をオンラインで再現しようとする必要はない、というか、そうしようとすべきではないのではないか、ということだ。

従来の、オフラインの授業は、オフラインの様々な困難による限界の中で行われていた。例えば、40人という人数の困難、一目に40人を見ることができない視覚的・空間的困難、一斉に上がる声を把握することの聴覚的困難、等々。オフラインの授業を、その限界も含めてオンラインで再現しようとすることによって、教員や生徒にとっては慣れた形式なので楽ではあろうが、無駄になるものや、失われるものもあろう。

これを感じたのは、どこで見たのか忘れてしまったがあるメディアで、都立高校での取り組みとして、オンライン会議システムを利用したリアルタイム授業が報じられていて、生徒の「挙手」を画面上で把握することのできる仕組みが紹介されているのを見たときだ。発問をして、「挙手」した生徒を指名し、解答を元に授業を進める。極めてオーソドックスな授業形態で、もちろん私も多用するけれども、この、発問に対する解答をクラスの中で公言したい生徒の中から1名を選び出す「挙手」という仕組みは、わざわざオンラインで再現しなければならないものなのだろうか? 

無論、緊急事態にあって、オフライン授業をオンラインで再現しようとする、それが可能である都立高校の人材や資金といったパワーは、称賛されるべきだろうが。

オンラインで授業を行わなければならない状況だからこそ、授業の本質が問われなければならない。あるいは、「授業」という形式さえ、オフラインの限界の中で必要とされるものであって、今、「授業」に代わって、「授業」でさえない学びがオンラインに行われるべきなのかもしれない。オフライン/オンラインを問わない、学びの本質を問う学びの哲学が現場に必要とされているのを、現場にいてオフライン授業のオンライン化を進めながら、ひしひしと感じている。

「先入観」について(小松理虔『新復興論』の「福島県産品」問題に関連して)

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

  • 作者:小松理虔
  • 発売日: 2018/09/01
  • メディア: 単行本
 

  先入観を持つことは良くないことだと気がついた。何とか先入観を持たず、誰とでも対等でありたいのだが、どうすればいいか——そのような問いに出会った。

 「先入観」が良くない結果を招くのは、どのような場合においてだろうか。例えば、何とかという土地にルーツを持つ人間にはこれこれこういう悪いところがあるから、付き合わない方がいい。A型の人間とは相性が悪いから、友達にはならない。この仕事は男性の方が得意だから、男性に任せた方がいい。例えばこういうとき、「先入観」は「差別」や「偏見」と呼ばれる。これらの「先入観」によって、人と人の出会いが阻害されたり、より相応しい役割が与えられなかったりするのだから、人と人の出会いやより相応しい役割を良いものとするならば、これらの「先入観」は、良くない結果を招いていると言える。

 一方で、「先入観」を持つことが、有用に働く状況を想起することもできる。例えば、ある工事現場で、ベテランの作業員が新人に「経験のないやつはこれこれこういうミスをする、気をつけろ!」とアドバイスし、結果としてそういったミスが起こらない。小さな子供の行動パターンに熟知した保育士は、予め子供の行動を制限することで、危険を回避する。もしかしたら、日本で生きてきた者には問題なくとも、そうでない人間にはどうにも回避できない修羅場を、事前の教育が避けさせるかもしれない。新人は、子供は、外国人は——こうした先入観は、では、良くないものだろうか。わたし自身、教壇に立てば、子供たちの躓きやすいポイントを予告したり、子供の避けるべき話題を避けたりしている。これもまた、子供とはこういうものだといった、「先入観」に他ならないはずだが、しかし、この「先入観」は、どうも持つべきものだとされているようである。それが、子供の可能性を潰している可能性もある。それでも、持つべきものだと、感じられる。

 後段で述べたようなものは、「先入観」とは呼ばれにくい。経験からくる予期、あるいは勘などと呼ばれるものだと思うのだが、しかし、経験から、あるいは前知識、情報から、ある個人の属性について、属性以上の判断をすることは、「先入観」に他ならないだろう。では、「差別」や「偏見」と、「予期」や「勘」は、どこがどう違うのか。実は、合理性、有用性の度合いでしかない。「先入観」を持つことが良くないことなのではなく、合理的ではない、有用性のない「先入観」が、良くないのである。

 こうなってくると、合理性、有用性が問われなければならない。100パーセントの合理性というものは存在しないし、ある者にとっては有用なことが、ある者にとってはむしろ迷惑になることもある。「差別」でさえ、小さなコミュニティの中で60年やそこらを生きる人間の一つの人生にとっては、合理的で有用な選択であり得る。だから、個人の感覚ではなく、社会における合意によって、合理性や有用性が判断されなければならない。

 小松理虔『新復興論』は、東浩紀の思想に共感するところの多いわたしには頷くところの多い本であったが、一カ所、ページをめくる手の止まるところがあった。福島県産品を口にするか否かといった問題についてである。

福島県産品を毒物扱いして「放射性廃棄物福島県民が食べて応援すればいい!」などと言葉を発してしまえば間違いなくアウトだが、福島県産品を避けること、不安を持ってしまうことは差別とは言えないし、各々の選択は尊重するほかないと私は思う。(中略)だいたい、科学的には正しいが、その科学的な正しさ以外は許さないというような権威的な社会より、無関心や無知が存在しながらも、自由を謳歌できる社会の方が健全だ。当然、差別は悪である。それを大前提としたうえで、多様な選択を受け止めつつ、いかに広く情報を届けるのかを本書でも考えていきたい。

 ここでは、「放射性廃棄物福島県民が食べて応援すればいい!」という言葉と、「福島県産品を避けること」の間に線が引かれている。ここでは「差別」は無論「悪」の「先入観」を意味し、前者は「差別」で、後者は「差別」ではないようである。しかし、これでいいのだろうか。

 投げかけられる「差別」の言葉は、端的に許されざる暴力だろう。しかし、では、「避ける」という行動は? 小松理虔はここでその線引きの根拠を示していない(ように見える)が、わたしには、そこに大きな差異を見いだせない。福島県産品が科学的に安全であるという前提に立てば、どちらも合理的ではなく、有用性もなく、共に福島県で産業に従事する者には良くない結果を招くものだからだ。

 もちろん、福島や差別の問題を語るにはわたしは不勉強に過ぎるのだが、「差別」と「非-差別」の線引き、この文章で用いてきた言葉を用いれば、合理的で有用な「先入観」と合理的ではなく有用ではない「先入観」の線引きは、「差別」は「悪」であるとの価値観を共有していたって、非常に難しい、ということは確かなようである。初めの問いに戻れば、「先入観」を持つことの善悪を、「先入観」それ自体によって判断すること自体が危険であると、まずはそう答えなければならない。

 ところで。「先入観」とは、どうも未来の予測である。とすれば、これを失うことは、人間に与えられた時間感覚から、未来の部分を失ってしまうことになるのではないだろうか。

あるいは意図された誤配――岩井俊二『ラストレター』

ラストレター

ラストレター

  • 監督:岩井俊二
  • 発売日: 2020/07/15
  • メディア: Prime Video
 

 

一見さわやかな物語である。福山雅治演じる売れない小説家乙坂が、かつての恋人未咲やその妹裕里との高校時代の恋愛沙汰を思い出し、未咲の娘鮎美ともども未咲の自殺を乗り越え、小説家として再出発する――表向きは、そのような物語だ。しかし、岩井俊二が、そんな、爽やかなだけの、救いだけの映画を、撮るだろうか。

キーアイテムとなるのが手紙である。本当は自殺したばかりの姉未咲が出るはずだった同窓会で、なりゆきから初恋の相手である乙坂と「未咲として」再開してしまった裕里は、夫に浮気と疑われるのを嫌い、差出元の住所のない手紙を乙坂に送る。乙坂は卒業アルバムを開き、未咲の実家に返事を送る。それを鮎美が受け取り、「おもしろくない」との理由で、未咲として返事を書く――私のこと、どれくらい覚えていますか、と、そのようなことを。そうした手紙の「誤配」が重なって物語は進んでいく。

最終的には、同窓会や手紙のやり取りの中で未咲のことを思い出し、彼女の元夫とも出会いつつ、乙坂はかつて未咲と通った高校へ行く。そこで、孫として過ごしている鮎美と颯香(裕里の娘)と出会う。鮎美と颯香を演じるのは高校時代の未咲と裕里と同じく広瀬すずと森七菜であり、彼の感じた過去と現在の重なりを、観客も体感することになる。未咲に線香を捧げ、乙坂は東京へと帰っていく。

しかし、この表向き爽やかな物語の裏側に、暗い世界が広がっている。

姉宛の同窓会のお知らせを裕里に託したのは、鮎美であった。それがきっかけとなり、裕里は同窓会へ赴き、そのことで乙坂と再開した。そして、乙坂が返事を求め未咲の実家に返事を送ると鮎美は、ただ母の自殺を知らせるのではなく、それでは「おもしろくない」と笑って、母の代わりに返事を書く。ついに乙坂と学校で出会うと、「乙坂鏡太郎さんですか」と鮎美はその名を呼ぶ。まるで、彼の来訪を予期していたかのように。鮎美が乙坂を家に呼ぶ(裕里は多少ひきぎみである)と、なぜかうまいことに祖父母は家にいない。大学時代の母の遺影(これも広瀬すずである)の前で鮎美は乙坂に、母が自殺したことを語り、そのあとの「初対面の人にこんなこと」と言って笑うその台詞の取って付けたような感じ、笑いのうさんくささも気になるのだが、その上で、「なんでもっと早く来てくれなかったんですか」と突きつける。

最後に乙坂に明かすように、鮎美は母と乙坂の手紙をすべて読んでいた。乙坂が幅をモデルにした小説も読んでいた。鮎美だけが、すべてを知っていた(例えば裕里は高校時代の未咲宛の手紙は読んでいたが小説の存在は知らなかった)。

これはもしかして、すべて、鮎美によって、ただ母と娘の恨みを、助けに来ることもなかった乙坂への恨みを、乙坂が亭主であり父親となっていたかもしれないその可能性への恨みを、母の遺影の前で晴らすために、意図された誤配の物語だったのではないか?

思えば鮎美はとにかく内面が見えてこない。父からの虐待や母の自殺に涙は見せず、意味深な表情で川の流れを見つめるのみである。「おもしろくないから」と笑って死んだばかりの母の代わりに手紙を書き、颯香の恋愛の悩みに大笑いする。彼女の笑いには、しかし、悪意を読み取ることもできる。乙坂に、未咲と裕里と過ごした過去を現在のものとして突きつけるために利用される颯香の、恋愛の悩みの「しょうもなさ」を、鮎美は嘲笑したのではないか?

そしてまた、「ラストレター」、映画の終わりに開封される未咲の遺書も恐ろしい。鮎美宛の封筒の中には、古びた原稿用紙が入っている。それは、卒業式で未咲の読んだ答辞なのだ。同じく広瀬すず演じる、未咲が卒業式で答辞を読み上げる声と、鮎美がその答辞=遺書を読み上げる声が重なる。それと同時に、画面は映画冒頭の、滝や川の流れを鮎美が見つめ、颯香と弟がはしゃぐシーンを映す。鮎美は、下流側から、滝を見つめている。それは、時を遡行し、その断絶――未咲と乙坂の別れを見つめているようでもある。冒頭のシーンと重なる、未開封だったはずの――鮎美は裕里に、「開けてません。開けられてません」と、決まり文句のような台詞を吐く――遺書の読み上げが重なる……鮎美は、冒頭のシーンで既に、遺書の中身を知っていたのではないか? そう思わせもする演出だ。高校時代の答辞――それは乙坂の添削したものだ――が遺書となる。高校時代、乙坂との過ごした日々で、時の止まってしまった母。その恨みを晴らそうと、あるいは伝えようと、すべてを作為的に行っていたとすれば……悲しく、暗い物語である。

以下メモ
・そもそも乙坂は、本当に未咲と付き合っていたのか? 未咲は乙坂からの手紙を保管しているが、乙坂の方に未咲からの手紙が残っていたという描写はない。あるいは、高校時代以上には、二人は接近しなかったのではないか?
・乙坂は別れ際に三度サインを記す。『未咲』というタイトルの本に記されるこのサインは、あるいは小説を完結させるものなのかもしれない。そして、サインは、必ず別れ際に行われる。
・未咲……未だ咲かず。