死者と語らう――夏目漱石『こころ』

生徒たちの『こころ』の読解の様子を見ていると、案外、Kの自殺の原因を、「先生」=「私」による裏切りやそれに伴う失恋などではなく、K自身の信念にK自身が背いたことに置く。「教科書」どおり(?)信念に反して矛盾を抱えてしまったこと、その矛盾を厳しい言葉で指摘されたこと、そして信頼する友人による裏切りを原因と考えてきたものだから新鮮に感じられるのだが、確かに、Kの遺書の言葉を信用すれば、彼は自身の薄志弱行によって死んだのだ。

このような読み方の違いは、決して第三者にはなり得ない「先生」=「私」の語りからはそれ以上のことが読み取れないことに起因する。『こころ』は「襖」によって「私」とKの心の壁を、あるいは心の交流を象徴していると読まれもするように、コミュニケーション(の不全)をテーマとして読むこともできる。とすれば、死とは、究極的にコミュニケーションの不全状態である。死者は語らない。「襖」を開け、心を通わせることができない。死者しか知らない自死の本当の理由は、その死者にしかわからない。彼の遺すものも嘘ばかりかもしれないのだ。「教科書」的な読みは、Kの遺書を嘘として、「先生」=「私」の語ることを真実として読むことを前提としているが、その真偽は真逆であるかもしれないわけだ。他者とのコミュニケーションは常に不全性を孕んでいるだろうが、死者とは、究極の他者である。

と同時に、あるいは、死者とのコミュニケーションは、究極のコミュニケーションなのかもしれない、とも思う。死者の死の理由は、究極的には、わからない。だからこそ、「先生」=「私」は、その死の原因を自身に置き、Kの「黒」い影を背負って生き、終には自らも死を選んだ。Kが死んでしまったからこそ、「先生」=「私」に、まさしく幽霊の如くKが取り憑き訴え続けるのだ。「襖」は、開けられたままなのだ。それは、生者であった二人にはできなかったことだ。

死者は語らないことによって語る。Kは語らず、「永遠に静か」であるからこそ、「先生」=「私」に語り続ける。あるいは「先生」=「私」もまた、Kに語りかけ続けてきたのだろう。そして、「先生の遺書」を受け取った「私」もまた、「先生」に語りかけられ、語りかけ続けて生きるに違いない。