知識人と大衆のジレンマ

 知識人と大衆の関係には、解決困難なジレンマが存在しているようだ。有り体に書いてしまえば、大衆に合わせていては知識人の高度な知的営為は困難だが、大衆を無視していては、やはり知的営為を維持することはできないというもので、このジレンマには様々な諸相があり、また付随する様々なジレンマがある。そしてこの、知識人と大衆のジレンマを孕んだ緊張関係が、プラトン以来度々語られてきたのだという直感を、先日得た。

 

 たとえば、そもそも、「ジレンマがある」といった態度さえも、知識人的であるのではないか。

 

 職業柄、こういう気づきをどうしても教育の現場で感じることと結びつけてしまうのだが、その前に教員は知識人なのかという疑問もある。教師などと呼んでみたりすれば、実に知的で崇高な使命を与えられた職業に見える一方で、中等学校教育までの段階というのは指導要領にがんじがらめで、また煩雑な事務と膨大な生徒数から組織の論理が優先され、そういったあり方は大衆的としか思えず、また実感として知識人めいた人はめったにいないし、自分が知識人として行動しているという気持ちもない。労働者、なのである。にも関わらず知識人の目線から書いてしまうのが、知識人の書いたものを読み慣れているせいなのか、書き言葉とは知識人のものなのか、などと考えさせられつつ、教員が知識人なのか大衆なのか、そもそもそのような二項対立がきっぱりと成り立つものなのか、などといったことは置いておき、知識人にはある種の専門性(無論、素人性もまた重要な要素だが)が必要だろうから、生徒というのは大衆だろう、という前提で。(などとここまで書いてきたが、誰か(たち)は知識人だ/大衆だ、ということではなく、何が知識人的で何が大衆的か、という話なのだろう。)

 

 たとえば教壇に立っていて感じる(目線からして、どうしたって上から目線で書いてしまうのだが、目線も年齢もあるのだから、大目に見てほしい)のは、「わからない」と私が口にしたときの、「は?」といった視線である。被害妄想かもしれないが、実際、真面目な生徒などは、授業後や放課後にやってきて「わからないでは困る」というようなことを言ってきたりする。要するに「解答」を求められるのである。このこと自体は、知識人や大衆ではなく、単に定期テストで点数を取るために解答が必要だという話だろうが、しかしこうしたところから、「わからない」、「解決困難」といった判断をすることが、またそうした判断を受け入れることがどれだけ難しいかを感じるのである。

 

 このようなことを考えたのは、先日、千葉雅也がTwitterで「炎上」していたのを見てからだ。基本的にはこのツイートだろう。

 ここで詳しく説明する気持ちはないのだが、私のこの文章に関わる形で、私なりの理解で要約すれば、千葉雅也のツイートというのは、フェミニズムの文脈においては明白に誤りとされる言葉(男性の自慰行為)と言葉(女性の生理)の関係(イコール)を、条件を付け文脈を付しながら敢えてその誤りの形のまま提示することで、哲学的思考を始めようとするものであった(※と思うが、単に一種の「エアリプ」の文脈でツイートしたのであれば、このような「敢えて」はないかもしれない)。そして、案の定フェミニズムの文脈において「炎上」したようであった。

 

 端から見ていれば、そもそも挑発的に議論を始めているわけであるし、SNSというのは、むしろ意図的に脱文脈的に言葉が解釈される空間、いわば最も言葉が文脈から切り離される空間なのだから、そのような場所で何よりも文脈が重要となる知的な営みをしようというのであれば、きっと言葉が文脈から切り離されることに何らかの意味なり可能性なりを見出そうとしているのだと思っていた。であれば、このような「炎上」は織り込んでいるはずだと思っていた。そもそもフェミニズムというのは闘争的にならざるを得ない思想であり、そうした思想に対して挑発的な議論の始め方をしたのだ。しかし、その後の千葉雅也のツイートはどこかナイーブで残念に感じられた。そして同時に、千葉雅也ほどの知識人であっても、大衆を前に振り切れないところがあるのだと感じ、このようなジレンマのことを考えたのであった。

 

 フェミニズムの文脈にいて闘争的である人々が大衆なのか、というのもまた難しいが、やはり「炎上」というのは大衆的現象だろう。そして、「炎上」を気にかけていては、つまりは大衆への配慮のもとでは、高い知的営為など行い得ない。有り体に言えば、馬鹿の理解を待つ時間は人間にはないからだ。一方で、「炎上」し続けていれば、知的営為の場所を失うこととなる。無論、ペンと原稿用紙を用意することはできる。しかし、今や、大衆的なものへの配慮を欠くような人物に、誰が、どのような場所を提供してくれるだろうか。大衆への配慮は、もはや知識人の基本的な道徳となっているのだ。

 

 私も、つい、知識人のあるべき姿として、どちらかに突き抜けるということを想像してしまう。しかし、結局は、バランスよく、うまくやっていくしかないのかもしれない。つまりは、解決困難な問題として抱えたまま、やっていかなければいけない。私はかつては大人の条件として「矛盾を抱えられること」があるのではないかと考えたことがあったが、知識人的なものも、やはり、矛盾を、ジレンマを、解決できない問いを抱えながら、うまくやっていくという形で表れるのではないだろうか。