「学校の勉強だけで」「一つの参考書を完璧に」/複数の正解の困難

少なくとも公立の進学校の教員たちはよく、「学校の勉強だけで」難関大にも行けるのだと口にし、実際に、塾なんかには通わずしかも学校の教材だけで難関大に合格していく人もいて、恐ろしいことだと思っていたのだが、しかし自分で難関大の問題を解いていると、なかなか学校では網羅して教えられないような細かな事項が問われたりもしている。勿論、入試は満点を取らなければいけない試験ではないから、つまりは、学校の授業と教材の理解が完璧に近ければ解ける問題できちんと点数を取れば、「学校の勉強だけで」難関大にも行ける、ということになるのだろう。これを成し遂げる生徒には本当に頭が上がらない。関連してよく言われることには、「いくつもの参考書に手を出すのではなく、一つの参考書を完璧に」というものもある。

しかし、やはり、何かを完璧にするというのは、なかなか難しいことなのではないだろうか。私などは、今でも複数の参考書を行き来して授業の準備をしたりしているが、どの参考書も通読などしたことがなく、普段行き来しない参考書をたまに見ると新たな発見があったりもし、複数の参考書を持つというのはそれなりの経済力がなければできないことではあるが、一つを完璧にしなければならないと思うよりは、二冊三冊と使ってみた方が気楽にそれなりの成果にたどり着けるのではないかと感じられる。

だいたい、一つのテキストを完璧にというのは、受験で合格するという目標においてのみ有効な方法なのではないか。大学を出ていれば誰もがわかることだと思うのだが、学問(受験教科とはその入り口であるはずである)において、何かを理解しようというときに、一つの説明しか読まないということがあろうか? 何かの説明とは、つまりはある立場からの見方、ある立場での解釈であって、多面的な視点は、物事の理解の条件ではないか?

この間、「解答がない」ことの難しさについて少し書いたのだが、「複数の解釈」もまた、やはり教場でも、なかなか難しいものがある。実際、古典などを読んでいれば、本によって語句や文法のレベルでも解釈が異なる(そもそも「本文」も写本に由来して複数あるのだ)ということが頻繁にあり、しかし様々な解釈の可能性は生徒にとっては負担だからと、担当教員で話し合ったりしてどれか一つに統一するということが行われたりする。もっと簡単な例でいえば、Wikipediaでコロンブスの項を見れば、「コロンブスは「アメリカを発見した」のか?」なんて節があり(2021/02/01)、世界史で私たちが暗記した「1492年、コロンブスアメリカを発見した」という事実も、一面的な解釈であることが、近年では常識になっているだろう。(しかし、今、例えば世界史では、どのように教えているだろう? これはあくまで象徴的な話だが、「1492年、コロンブスアメリカを発見した」という教え方でも、普通の受験では通用するのだろうけれども。)

結局は、ただ一つの正解があるのは、ある一定の段階までなのだ。ある一つの書物を仮に完璧に理解したとして、完璧に理解されたのはその書物に過ぎないわけである。と考えると、「学校の勉強だけで」「一つの参考書を完璧に」という言葉に内心ざわざわする私も救われるような気がする(なんせ、学校ではほとんどの場合1限から7限まで眠っていたし、参考書は何冊も持って途中で放り出したものも多い)。