通学路は学校か?

制服の話

最近、学校制服が何かと話題になっている。私自身、制服のない、完全私服校を出て、こうして立派な大人になったわけで、制服指導の意義のよくわからないところもあるのだが、一方で、きちんとした格好の意味・価値を尊重する気持ちにも共感できるし、多くの生徒が卒業後は就職するというような学校では、 きちんとした格好を厳しく指導しておくことが、社会に出たときの生徒の利益に直接的に結びつく、というようなことも理解できる。学校の不条理が社会の不条理を温存するというような批判はよく耳にするが、学校は社会の一部であって、学校だけ浮き立つわけにもいかない。社会を変えるという大きな流れに乗ることはできるかもしれないが、一校二校だけ変わりものになるわけにもいかない。学校⊂社会。

制服指導の目指すところは、何なのだろう? 今日は、登下校時にはスカートを折っていて、学校ではきちんと着ている子供たちがいるということに気がついた。こうして、時と場所をわきまえ、学校⊂社会に順応した格好をする、そうした穏当な人物の育成、だろうか? 本当にこれでいいのか、という若干の引っかかりはありつつ、制服指導の達成を感じもする一日であった。

通学路は学校か?

この若干の引っかかりを言語化してみると……「登下校中の指導はしなくていいのか」という誰かの声が聞こえるのだ。実際、大抵の学校で、登下校の指導を行っているのではないだろうか。挨拶をしつつ、制服の着こなしを指導したり、道に広がって歩かないよう指導したり、大声で会話しないよう指導したりする。一つには、苦情への対応という側面がある。つまり、「生徒が道に広がっていて邪魔だ」とか、「生徒が騒がしい」とか、「生徒が公共スペースを占有していて私たちが使えない」といった苦情が学校に寄せられるわけだ。こうした苦情が学校に来る背景には、まず彼ら彼女らが制服を着ていて、それによってどこの学校の生徒であるかが明らかになること、そして、制服を着た子供たちの「指導責任」のようなものがその在籍する学校にあると認識している市民が多かれ少なかれいる、ということがある。

これが正当な在り方なのだとすれば、登下校中は、学校教育の内部ということになる。とすれば、学校においては制服をきちんと着て(叱られる可能性があるから、あるいは、きちんと着るべきだという倫理観が育っているから)、登下校時は着崩す(個性的な格好をしたいから、そっちの方がかっこいい/かわいいから、と周りが考えているから)というスタイルは、生徒として誤っている/学校として認めてはならないスタイルということになる。

しかし、そうなのだろうか。登下校時は、あるいは制服を着ている時は、彼ら/彼女らは、学校にいるのか? そこは学校の教育活動の場なのか? 教員はついていない(勤務時間外だ)のに?

これは社会の決めることなのだろうが、板挟みになるのは心苦しいものである。教員は、板挟みどころか、対立状態にも置かれうるのだ。何となくやってきたツケ、を感じる日々である。

 

ブラック校則 理不尽な苦しみの現実

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