善悪の彼岸の動物たち――芥川龍之介「羅生門」

芥川龍之介羅生門」を読んでいると、たくさんの動物たちが出てくる。例えば蟋蟀や、鴉や、「狐狸」。しかし、そうした動物たちは、例えば羅生門に死体をついばむために集まり糞を残していた鴉は「刻限が遅いせいか、一羽も見え」ず、風が夕闇とともに吹き抜け、蟋蟀は「どこかへ行ってしま」う。そして下人は門へと登るのだが、そこからは、死体と下人と老婆の世界であり、ただ「蜘蛛の巣」だけが残されている。

しかし、門の上にも、動物のごとき存在がいる。下人や老婆である。下人は「猫のように身を縮め」るし、「守宮のように足音を盗」む。老婆は「猿のよう」であり、「鶏の脚」のような腕を持ち、「肉食鳥のような鋭い目」を持ち、「鴉の鳴くような声」で、「蟇のつぶやくような声」で語る。

このように動物を用いた比喩表現が多様されていることは、既に一般的な着目点となっている。そして一般には、老婆の化物性・異物性を表していたり、人間の動物的な醜悪さを表していたりすると解釈されるらしい。なるほどとは思いつつ、しかし、門の下では、つまり、登る前と後の場面では、動物の比喩が用いられない、ということも面白いポイントではないか。つまり、悪を選びきることのできない門の下で、あるいは、悪を選び門を降りたところで、下人は人間なのである。そう考えると、動物とはむしろ、そうした善悪の境界(無論、「羅生門」の時間帯の設定や門という場所の設定は、「境界」として解釈されてきた)、あるいは、善悪の混じり合った、あるいは、善悪の存在しない、そのような在り方を表すものに見える。芥川龍之介ニーチェを読み、様々な形で影響を受けていたことは論を待たない。羅生門の上は、善悪の彼岸――人間的善悪が一度批判され解体される空間なのだ。そしてそこから降りていくとき、下人はまた別種の善悪の基準を持って降りていくのである。

このようなことは既に誰かが書いているのかもしれないが、無数の論文を読みあさる時間もなく、もし先行する文章があれば、教わりたい。