桜庭一樹と鴻巣友季子のすれ違いについて思ったこと

 

鴻巣友季子が書いた桜庭一樹小説「少女を埋める」に対する批評(こちら)の中のあらすじの記述に対して桜庭一樹が批判し、訂正を求めている。引用したのはオープンになっているその一連の批判の冒頭だが、驚くべきツイートである。「原稿」とは彼女の創作した小説「少女を埋める」のテキストのことを指すのだろうが、鴻巣があらすじに書いた「虐待」は本文にはなく(後に鴻巣は本文中の「虐めた」を虐待と取ったと述べている。一連のツイートを参照してほしい)、さらには「またそのような事実もありません」というのだ。また? 事実?

 

創作物である小説に虐待を表す記述はないと、鴻巣のような文学者にさえそう読まれてしまう程度には、意図した内容を伝える文を書く能力がないことを恥じつつ(意図を伝えられないことは小説の魅力とは関係ないだろうが)そう指摘する、そのことは理解できる。しかし、「またそのような事実も」とは、何だろう? 小説と併置される事実とは?

 

 

作者によれば、この小説は「私小説として発表され」ているらしい。桜庭の言う「ある人物」とは、作中人物だろうが、作中人物である彼女が「虐待した」と誤読されることに、「私小説として発表されたこの作品」だからこそ懸念があるらしい。そしてそれは「「報道被害」という面もある」と言うのだ。

 

報道被害とは普通、事実や事件の報道において、故意であれ過失であれ、本来あるべきではない被害が報道対象となっている人物やら団体やらにふりかかることを言うだろう。ここで報道されているとすれば、小説「少女を埋める」か、あるいはその作中人物であるか、そこにはテキストとその解釈以外の事実など、存在しないのではないか?

 

意地悪く書いてきたが、要は、桜庭一樹は作中人物のモデルとなった人物が事実として虐待を行ったと誤解されることに懸念を抱いているのだ。モデルとなった人物が虐待を行ったという「事実もありません」と述べているのだ。これは私の彼女のツイートに対する誤読であると信じたいが、そうでないならば――。桜庭は鴻巣に対し「自分の解釈とはっきり書かれていることを混同した」と批判しているが、それ以前に、(無論、突き詰めて考えていけば、その差異は混じり合ってとけていくこともあるのだろうが、基本的なこととして)創作と事実を混同してはいけないのではないか、と言いたくもなる。

 

勢いで、意地悪く書いてしまった。桜庭一樹の思いも重々わかるのだ。しかし、小説として発表してしまった以上、いくら「私小説」だと、「事実に基づくのだ」と主張しようと、自分の思いに反する読解に対して批判に終わらず「デマ」だから「訂正」を要求するというのは、作家として不誠実かつ未熟だと思えてしまうし、「私小説」といったワードを使えばなんでも誤魔化せる(汚い言い方でごめんなさい)というような、ずるくてダサい姿勢に見えてしまう(と、桜庭一樹の罵り文句を引用してみたが、なかなかのものである)。

 

さて、桜庭一樹鴻巣友季子の「論争」を読んで、いにしえのモデル小説をめぐる裁判沙汰などを思い出したりしていた。そこから、モデルや、フィクションや、私小説について考えたりもしたが、最終的に思うのは、私小説なるものの魅力について。私小説なるものを書く作家には、どうもダメな人間が多い(等と書くと抗議されそうだが)。これは伝統的にそうで、そのダメさの告白が私小説のはじめにあったわけだから当然といえば当然なのだが、もちろん作家それぞれのダメさがあって、それが私小説の魅力を生みもしている。しかし、いにしえの私小説作家たちとは少し違って見える彼女のダメさは、何だろうなぁと考えてみると……案外、古今の私小説作家たちのダメさの根底には、手垢の付いた言葉だが「甘え」と呼ばれるものがあって、彼女のダメさもまた、その「甘え」の現代的な表れと言えるのかもしれない。