宇宙世紀に乗り遅れ——『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

映画館でやっていたときから見たいと思っていたのだが、早くもAmazonプライムに出たと聞き、観た。


メカやアクションはかっこよく、ヒロインは萌える、期待どおりのガンダムなのだが、しかし気になったのは、地球連邦の高官が利用するというシャトルや高級ホテル、士官のいる空間、東南アジアの島国の街の路地を背景にするシーンが、結構なウェイトを占めて丁寧に描かれていることだ。『閃光のハサウェイ』の紛争の背景として、地球に暮らすことを許可された地球連邦を中心とする上層階級が「マンハンター」によって摘発され宇宙移民を余儀なくされる人々を虐げているといった構造が設定されているわけで、もちろん、そうした設定を描くものではある。地球連邦の中枢として地球に住むことのできる貴族的な人々と、彼らの生活を支え、あるいは摘発される街の人々を描いているわけだ。


そして、主人公であるハサウェイは、立場上、その間を行き来することになる。そして彼自身、「すべての人類を宇宙へ」というような自身の理想とテロリズムという凶悪な手段に疑念を抱く様子が描かれる。きっかけとなるのが、ギギとの会話や、街のタクシー運転手との会話だ。


彼女/彼とハサウェイの違いは、「汚い」現実があるか否かだろう。「伯爵」と呼ばれる人物の愛人であるギギは自身を「汚れている」と表現する。タクシー運転手は、ハサウェイらを「学がありすぎる」「暇」と評し、「千年先のことを考えている」と反論するハサウェイに「明後日」のことを考えるような暇はないと答える。今日明日を生きる金を稼ぐ、そのために働く必要があるのだ。彼が働くのは、いかにも東南アジアのイメージに合致する猥雑な街だ。ハサウェイは、貴族的な空間から、その街の雑多な路地を通って、自身の率いるテロ組織の元へ戻り、ガンダムに乗ることになる。


宇宙世紀」とは、初代の『機動戦士ガンダム』に始まり、『0083』『Zガンダム』や『逆襲のシャア』、『ガンダムU.C.』『Vガンダム』に描かれた時代であるが、この時代は、初めの戦争の「コロニー落とし」に始まり、小惑星を落としたり、「ラプラスの箱」を公開したり、巨大なローラーで地球を更地にしたりといった、そういう、言ってしまえば単純な手段で、世の中を一変させようというような時代だった。

 

ハサウェイは、まずは清潔でのっぺりとした空間にいる。そして、雑多な街を通って、やはりのっぺりとしたメカに囲まれた組織の基地と、ガンダムのコックピットに収まる。この移動は、私には、宇宙世紀的な単純さと対極にあるものとしての地上的猥雑な複雑さの往還を象徴するものに見える。


ハサウェイは、シャアのような高邁な理想を掲げながら、シャアのようにアクシズを落とすというような単純な手段は取れず、高官殺害といった地道で現実的なテロリズムの手段に訴えている。そして、原作のその結末ははっきりと覚えているのだが、彼は処刑されることになる。『閃光のハサウェイ』は、地上の猥雑さを描きこみ、そして主人公に地道で現実的なテロリズムを担わせることで、宇宙世紀的な単純さの不可能性を、ついに描いているのかもしれない(もちろん何十年も前に原作小説があるわけだが、読んだのがなにしろ中学生で、そういうことは読み取らなかったし、そういう細部は記憶にあまり残っていない)。戦乱の世が終わらないことは『Vガンダム』や『∀ガンダム』が証明している。結局人類は、「重力に魂を縛られ」猥雑な地上で、今日や明日を生きていて、明後日のことなど考えられないものなのかもしれない。世の中を一変させるような単純な手段などは存在しない——そのような、現実的な大人の諦念が見え隠れするガンダムシリーズだからこそ、「それでも」抗う若者たちの姿はかっこよく美しく、オタクの心を打つわけだ。