2022年に「ラブ&ポップ」を観る

 

映画「ラブ&ポップ」を見た。おもしろかった――古い、ということも含めて。

 

映画には、

 

決められた時間を守り、決められた場所をつなぐ乗り物。連れて行かれると言う感覚。毎日が昨日の繰り返し。明日が今日と違うとは考えられない。ものすごい不幸も、ものすごい幸せも、まだ知らない。

 

ところで、渋谷という町は、井の頭線のトンネルを抜けたところにある。だから開放的で、私たちが集うのかもしれない。まあたぶん、関係ないと思うけど。

 

といったモノローグがあって、村上龍の原作小説には見当たらず、映画化に際し「電車」のモチーフを導入した庵野秀明のオリジナルなのだろうと思うのだが、この印象的なセリフが、「ラブ&ポップ」が原作から持っている、「終わりなき日常」の主題を際立たせている。映画は、「援交」に加え、渋谷という空間を主題に取り入れ、その、見せかけの可能性を、可能性の見せかけを映し出しているようだ。

 

ヒロインの呼びかけに姿を現す男たちは、それぞれに個性があり、人間らしい悲しみがあり、それはヒロインの感情も揺さぶりながら、映画を見る者にも安心感のようなものを与えるのだが、しかし、ヒロインと同様に見る者も、即座に彼らの得体の知れない暴力性にさらされることになる。「援交」は、見ず知らずの人間との出会いを用意する、かのように見える。見ず知らずの、人間らしい人間との出会いは、日常の、決められた人間関係の外部へと連れ出すように見え、しかし、それは「援交」であって出会いなのではない。男はただ、欲望を暴力的に解消し、去っていくだけだ。そして、その舞台となる渋谷もまた、人と人の、人ともの(水着、ネイル、指輪……)との出会いの場のようでありながら、「トンネルを抜けたところ」のようでありながら、また別の閉ざされた空間に過ぎないことを、エンディングの渋谷川が物語っている。 「援交」も渋谷も、外になど繋がっていない。そこに可能性はない。

 

ヒロインの胸に、2時間の対価として、4円を置いていく男が出てくる。かの4円は、それ自体、様々に象徴的ではあるけれども、私には、SNS上で無賃労働に勤しむ現代の少女たちを思い起こさせる。「終わりなき日常」は、私にはどこか牧歌的な言葉に聞こえる。「終わりなき日常」と口にするときには、やはり、日常の外側が想定されているように感じられるからだ。外側の可能性が残されているかのような物言いだからだ。あの4円でさえ、男の人間性のようなものの可能性めいていたし、また原作では、それは「インドとか、中近東」=外の世界の児童労働の対価としての4円だったのだ。今では、かつてとは比較にならないほど、日常の終わらなさは完成され、その外側はますます巧妙に消去されているだろう。