『耳をすませば』を経済的階級差を越える物語として見る

妻が録画していた『耳をすませば』を見るのに便乗してつい私も見てしまった。何度も見てきた作品だが、今までで一番落ち着いて見られた気がする。自身の思春期から遠く離れてしまったからだろうか……そして、落ち着いて見ていると、この映画に、同じ公立中学に通う子供達の家庭の経済力の差が描きこまれていることに気づく。

 

まず、主人公である月島雫の家はどうか。団地である。父親は図書館勤務であるから、専門職公務員だろうか。母親は大学院に通っているという設定だが、決して裕福な様子ではないのは、新しくもない団地に住み、大学生の姉がバイトのお金で家を出て一人暮らしを始め、雫が電車で行く図書館に父は自転車で通っている、といったところから見てとれる。

 

そんな彼女のことを好きになる少年が二人いる。天沢聖司と、杉村だ。物語のはじめの時点で雫は天沢のことを認識していないから、おそらくは彼とは中学で同じになり、同じ学級にはなったことがない。一方で杉村は、親しげな様子や「ずっと友達だったから」という雫の台詞から、小学校以前から付き合いがあったのだろうと想像される。

 

結局、雫は杉村をふってしまい、聖司を選ぶ(結婚の約束までしてしまう)。家庭の経済力の話に戻ると、杉村の家については、描写がない。しかし、何となく(!)、経済的には雫とそう変わらないような気がする(よもや、あの雰囲気で金持ちということはあるまい……)。一方で聖司はというと、「天沢医院の末っ子」という台詞があるように、父親が開業医らしい。母方の祖父がいかにも稼ぎのなさそうな「地球屋」で職人をしているが、それはむしろ経済的な余裕の表れだろう。彼は戦前にドイツにいたというから、彼もまた医者の家系の出なのかもしれない。そんなエリート一家の末っ子として生まれた聖司が、ヴァイオリンをかなりの腕前で弾きこなし、ヴァイオリン職人を目指そうなどと考えられるのは、この「実家の太さ」故だと言える(進学や就職へのプレッシャーの大きい雫とは対照的である)(聖司は進路について親に反対されている。親としては、末っ子であるから家を継ぐということはないだろうが、やはり医学の道などを考えさせたいのかもしれない。しかし、結局ヴァイオリン職人を目指せそうなところに、末っ子という設定が生きている)。

 

この、細かく設定され言及され想像させられる家庭の経済力の差は、何なのだろうか。原作が少女漫画であるという知識だけはあるから、つい、そう裕福ではない少女が、たいそう裕福な男に愛されるというような、典型的シンデレラストーリーを背景に描きこもうというような意図を感じてしまう。実のところ、そうなのではないか?

 

耳をすませば』を経済的階級差を「越える」物語として見てみると、たとえば、猫のムーン(お玉やムタなどとも呼ばれる)が、その経済格差を「越える」月(!)島雫のような生き方を象徴する存在であったことがわかってくる。雫の町から聖司の町へ、雫と同じく電車にのり、裏道を通って柵を越えていくこの猫は、同じく聖司の町へ、あるいは天(!)沢聖司の階級へと昇っていく月島雫そのもの、あるいは、彼女の案内人のようではないか。猫を追いかけていく雫は、坂の途中の図書館を過ぎて、さらに登って「地球屋」にたどり着く。聖司の町は高台にあり、雫の団地は下にあって、その中間に図書館がある。地理的にも、聖司と結ばれるためには上昇する必要があったわけだ。そう考えると、飛行船を見上げる雫の描写も意味を帯びてくる。あのシーンは雫の上昇志向の暗示であり、一方で「ずいぶん低い」ところを飛ぶ飛行船は、高いところから降りてくる聖司の象徴である。そういえば、「地球屋」の時計はドワーフの王がエルフの王女を見上げる仕掛けであった。上下に隔てられた世界をまたぐ恋……。

 

では、雫はどうやって上昇し、天沢聖司に近づくのか? とにかくお金のかからない、図書館の本から得る文化であり、紙とシャーペンがあれば書くことのできる詩や物語であり、歌によって、手拍子によって、だ。彼女は幼馴染の野球少年杉村ではなく、聖司を選ぶ。階級の離れた雫と聖司を結ぶのは、お金をかけないながらも雫が身につけた、文化なのである。これが、杉村には(おそらく)身についていなくて雫には身についたというのは、裕福でないながらも郷土史を研究したり大学院に通ったりする文化的な両親の影響だろう。細かく見れば、彼女が物語を書き始めるのは、屋上で聖司から夢に向かってお試しの修行を行うと聞き、泣きながら階段を「降り」た後である。聖司のいる高い場所で共に生きるのに、歌と手拍子では足りないのだ。

 

これは、降りていく聖司の側から見ても同様だ。彼の実家(天沢医院)の描写はないが、学校の図書室に本を寄贈するほどの蔵書があると想像される。彼が図書館に通ったのは、彼の台詞どおり、雫との接点を作るためだったのだ。そしてまた、雫にヴァイオリンを弾くよう促され、高尚なバッハの無伴奏を弾きかけて「カントリー・ロード」に切り替えるのも、雫に合わせるためだろう(聖司の祖父や「音楽仲間」たちはいかにも玄人らしいが、中学3年であのように即興で伴奏を弾きこなせるというのはなかなか想像し難く、あるいは、雫との接点作りのために練習していたのではないか、とも感じる。なお、ネットで知ったのだが、この演奏のシーンではヴァイオリンは通常よりも「低く」調弦されているようだ)。彼の方は、家の環境から自然と身につけられた文化を、雫に合わせていく。

 

雫と聖司の二人は、このように家庭の経済格差を乗り越えて結ばれるのである。聖司は、高台から見える朝焼けを雫に見せたかったと言う。雫を自転車の後ろにのせて坂道を登っていく聖司の「お前を乗せて坂道登るって決めたんだ」という台詞は、彼女を経済的に支えるという意味を言外に秘めていそうだ。私だって役に立ちたいという雫の台詞も、お金に絡むものに思えてくる。そうして二人は力を合わせ、高いところへたどりつく。

 

一方でもう一人、上流階級の同級生、原田という少女が出てくる。彼女の部屋は装飾の施された家具や壁紙やかわいらしいクッションなどに彩られ、きれいな犬を抱く専業主婦らしい母親の用意したであろう紅茶や皿に盛られた菓子があって、庭には少なくとも数本の木があり、門はたいそう立派である。彼女は杉村に恋をし、エンドロールの背景で彼と結ばれたらしい描写もある。このカップルもまた経済力の差を乗り越えて結ばれたカップルであったが、こちらは、どのようにその差を乗り越えたのだろうか……(「この二人はわかれる」by妻)。