「恋愛しないので」――田島列島『水は海に向かって流れる』

1巻

久々に読むのに時間のかかる漫画を読んだ。薄味の画風には嫌味がなくいつまでも見ていられる。なぜ見ているのかといえば、画力がすごいとか、描き込みがすごいとか、そうした凄さというのは私には判断できず、そうではなくて、画と台詞による巧みな心理描写に心打たれ、ページをめくれなくなってしまうのである。ページをめくれない……これこそ本の醍醐味である。

しかし、ヒロインの「26歳OL」という設定の美しさよ。若すぎず、かといって妙齢の女性が、「恋愛しないので」と呟くその後ろ姿よ。それでいて主人公の高校生男子や周囲には恋愛の主体/客体として見られてしまう(「〜の彼女かな」、あるいは近寄られて赤面する主人公)。あるいは、恋愛というものは、望むと望まざるとにかかわらず、参加させられる、あるいは舞台にのせられる、そういうものなのかもしれない。これもまた恋愛の苦しさの一側面であり、場合によってはこれは、希望でもあるだろうが、仮にこの漫画の物語にハッピーエンドが待っているとして、それは恋愛によるものなのか、それとも恋愛から離れたところにあるのか、どちらにせよ先の楽しみな漫画である。

 

2巻

エモと笑いのテンポ感。2ページに一度くらい立ち止まらせる力がある。

 

3巻

恋愛をする人間の人生の大部分が(誰かとは)恋愛をしない理由に振り回されている可能性を感じさせる漫画であった。一人と恋愛をするという恋愛の基本的な形態も、裏返せば他の人と恋愛をしないということだ。

通学路は学校か?

制服の話

最近、学校制服が何かと話題になっている。私自身、制服のない、完全私服校を出て、こうして立派な大人になったわけで、制服指導の意義のよくわからないところもあるのだが、一方で、きちんとした格好の意味・価値を尊重する気持ちにも共感できるし、多くの生徒が卒業後は就職するというような学校では、 きちんとした格好を厳しく指導しておくことが、社会に出たときの生徒の利益に直接的に結びつく、というようなことも理解できる。学校の不条理が社会の不条理を温存するというような批判はよく耳にするが、学校は社会の一部であって、学校だけ浮き立つわけにもいかない。社会を変えるという大きな流れに乗ることはできるかもしれないが、一校二校だけ変わりものになるわけにもいかない。学校⊂社会。

制服指導の目指すところは、何なのだろう? 今日は、登下校時にはスカートを折っていて、学校ではきちんと着ている子供たちがいるということに気がついた。こうして、時と場所をわきまえ、学校⊂社会に順応した格好をする、そうした穏当な人物の育成、だろうか? 本当にこれでいいのか、という若干の引っかかりはありつつ、制服指導の達成を感じもする一日であった。

通学路は学校か?

この若干の引っかかりを言語化してみると……「登下校中の指導はしなくていいのか」という誰かの声が聞こえるのだ。実際、大抵の学校で、登下校の指導を行っているのではないだろうか。挨拶をしつつ、制服の着こなしを指導したり、道に広がって歩かないよう指導したり、大声で会話しないよう指導したりする。一つには、苦情への対応という側面がある。つまり、「生徒が道に広がっていて邪魔だ」とか、「生徒が騒がしい」とか、「生徒が公共スペースを占有していて私たちが使えない」といった苦情が学校に寄せられるわけだ。こうした苦情が学校に来る背景には、まず彼ら彼女らが制服を着ていて、それによってどこの学校の生徒であるかが明らかになること、そして、制服を着た子供たちの「指導責任」のようなものがその在籍する学校にあると認識している市民が多かれ少なかれいる、ということがある。

これが正当な在り方なのだとすれば、登下校中は、学校教育の内部ということになる。とすれば、学校においては制服をきちんと着て(叱られる可能性があるから、あるいは、きちんと着るべきだという倫理観が育っているから)、登下校時は着崩す(個性的な格好をしたいから、そっちの方がかっこいい/かわいいから、と周りが考えているから)というスタイルは、生徒として誤っている/学校として認めてはならないスタイルということになる。

しかし、そうなのだろうか。登下校時は、あるいは制服を着ている時は、彼ら/彼女らは、学校にいるのか? そこは学校の教育活動の場なのか? 教員はついていない(勤務時間外だ)のに?

これは社会の決めることなのだろうが、板挟みになるのは心苦しいものである。教員は、板挟みどころか、対立状態にも置かれうるのだ。何となくやってきたツケ、を感じる日々である。

 

ブラック校則 理不尽な苦しみの現実

ブラック校則 理不尽な苦しみの現実

 

 

「学校の勉強だけで」「一つの参考書を完璧に」/複数の正解の困難

少なくとも公立の進学校の教員たちはよく、「学校の勉強だけで」難関大にも行けるのだと口にし、実際に、塾なんかには通わずしかも学校の教材だけで難関大に合格していく人もいて、恐ろしいことだと思っていたのだが、しかし自分で難関大の問題を解いていると、なかなか学校では網羅して教えられないような細かな事項が問われたりもしている。勿論、入試は満点を取らなければいけない試験ではないから、つまりは、学校の授業と教材の理解が完璧に近ければ解ける問題できちんと点数を取れば、「学校の勉強だけで」難関大にも行ける、ということになるのだろう。これを成し遂げる生徒には本当に頭が上がらない。関連してよく言われることには、「いくつもの参考書に手を出すのではなく、一つの参考書を完璧に」というものもある。

しかし、やはり、何かを完璧にするというのは、なかなか難しいことなのではないだろうか。私などは、今でも複数の参考書を行き来して授業の準備をしたりしているが、どの参考書も通読などしたことがなく、普段行き来しない参考書をたまに見ると新たな発見があったりもし、複数の参考書を持つというのはそれなりの経済力がなければできないことではあるが、一つを完璧にしなければならないと思うよりは、二冊三冊と使ってみた方が気楽にそれなりの成果にたどり着けるのではないかと感じられる。

だいたい、一つのテキストを完璧にというのは、受験で合格するという目標においてのみ有効な方法なのではないか。大学を出ていれば誰もがわかることだと思うのだが、学問(受験教科とはその入り口であるはずである)において、何かを理解しようというときに、一つの説明しか読まないということがあろうか? 何かの説明とは、つまりはある立場からの見方、ある立場での解釈であって、多面的な視点は、物事の理解の条件ではないか?

この間、「解答がない」ことの難しさについて少し書いたのだが、「複数の解釈」もまた、やはり教場でも、なかなか難しいものがある。実際、古典などを読んでいれば、本によって語句や文法のレベルでも解釈が異なる(そもそも「本文」も写本に由来して複数あるのだ)ということが頻繁にあり、しかし様々な解釈の可能性は生徒にとっては負担だからと、担当教員で話し合ったりしてどれか一つに統一するということが行われたりする。もっと簡単な例でいえば、Wikipediaでコロンブスの項を見れば、「コロンブスは「アメリカを発見した」のか?」なんて節があり(2021/02/01)、世界史で私たちが暗記した「1492年、コロンブスアメリカを発見した」という事実も、一面的な解釈であることが、近年では常識になっているだろう。(しかし、今、例えば世界史では、どのように教えているだろう? これはあくまで象徴的な話だが、「1492年、コロンブスアメリカを発見した」という教え方でも、普通の受験では通用するのだろうけれども。)

結局は、ただ一つの正解があるのは、ある一定の段階までなのだ。ある一つの書物を仮に完璧に理解したとして、完璧に理解されたのはその書物に過ぎないわけである。と考えると、「学校の勉強だけで」「一つの参考書を完璧に」という言葉に内心ざわざわする私も救われるような気がする(なんせ、学校ではほとんどの場合1限から7限まで眠っていたし、参考書は何冊も持って途中で放り出したものも多い)。

知識人と大衆のジレンマ

 知識人と大衆の関係には、解決困難なジレンマが存在しているようだ。有り体に書いてしまえば、大衆に合わせていては知識人の高度な知的営為は困難だが、大衆を無視していては、やはり知的営為を維持することはできないというもので、このジレンマには様々な諸相があり、また付随する様々なジレンマがある。そしてこの、知識人と大衆のジレンマを孕んだ緊張関係が、プラトン以来度々語られてきたのだという直感を、先日得た。

 

 たとえば、そもそも、「ジレンマがある」といった態度さえも、知識人的であるのではないか。

 

 職業柄、こういう気づきをどうしても教育の現場で感じることと結びつけてしまうのだが、その前に教員は知識人なのかという疑問もある。教師などと呼んでみたりすれば、実に知的で崇高な使命を与えられた職業に見える一方で、中等学校教育までの段階というのは指導要領にがんじがらめで、また煩雑な事務と膨大な生徒数から組織の論理が優先され、そういったあり方は大衆的としか思えず、また実感として知識人めいた人はめったにいないし、自分が知識人として行動しているという気持ちもない。労働者、なのである。にも関わらず知識人の目線から書いてしまうのが、知識人の書いたものを読み慣れているせいなのか、書き言葉とは知識人のものなのか、などと考えさせられつつ、教員が知識人なのか大衆なのか、そもそもそのような二項対立がきっぱりと成り立つものなのか、などといったことは置いておき、知識人にはある種の専門性(無論、素人性もまた重要な要素だが)が必要だろうから、生徒というのは大衆だろう、という前提で。(などとここまで書いてきたが、誰か(たち)は知識人だ/大衆だ、ということではなく、何が知識人的で何が大衆的か、という話なのだろう。)

 

 たとえば教壇に立っていて感じる(目線からして、どうしたって上から目線で書いてしまうのだが、目線も年齢もあるのだから、大目に見てほしい)のは、「わからない」と私が口にしたときの、「は?」といった視線である。被害妄想かもしれないが、実際、真面目な生徒などは、授業後や放課後にやってきて「わからないでは困る」というようなことを言ってきたりする。要するに「解答」を求められるのである。このこと自体は、知識人や大衆ではなく、単に定期テストで点数を取るために解答が必要だという話だろうが、しかしこうしたところから、「わからない」、「解決困難」といった判断をすることが、またそうした判断を受け入れることがどれだけ難しいかを感じるのである。

 

 このようなことを考えたのは、先日、千葉雅也がTwitterで「炎上」していたのを見てからだ。基本的にはこのツイートだろう。

 ここで詳しく説明する気持ちはないのだが、私のこの文章に関わる形で、私なりの理解で要約すれば、千葉雅也のツイートというのは、フェミニズムの文脈においては明白に誤りとされる言葉(男性の自慰行為)と言葉(女性の生理)の関係(イコール)を、条件を付け文脈を付しながら敢えてその誤りの形のまま提示することで、哲学的思考を始めようとするものであった(※と思うが、単に一種の「エアリプ」の文脈でツイートしたのであれば、このような「敢えて」はないかもしれない)。そして、案の定フェミニズムの文脈において「炎上」したようであった。

 

 端から見ていれば、そもそも挑発的に議論を始めているわけであるし、SNSというのは、むしろ意図的に脱文脈的に言葉が解釈される空間、いわば最も言葉が文脈から切り離される空間なのだから、そのような場所で何よりも文脈が重要となる知的な営みをしようというのであれば、きっと言葉が文脈から切り離されることに何らかの意味なり可能性なりを見出そうとしているのだと思っていた。であれば、このような「炎上」は織り込んでいるはずだと思っていた。そもそもフェミニズムというのは闘争的にならざるを得ない思想であり、そうした思想に対して挑発的な議論の始め方をしたのだ。しかし、その後の千葉雅也のツイートはどこかナイーブで残念に感じられた。そして同時に、千葉雅也ほどの知識人であっても、大衆を前に振り切れないところがあるのだと感じ、このようなジレンマのことを考えたのであった。

 

 フェミニズムの文脈にいて闘争的である人々が大衆なのか、というのもまた難しいが、やはり「炎上」というのは大衆的現象だろう。そして、「炎上」を気にかけていては、つまりは大衆への配慮のもとでは、高い知的営為など行い得ない。有り体に言えば、馬鹿の理解を待つ時間は人間にはないからだ。一方で、「炎上」し続けていれば、知的営為の場所を失うこととなる。無論、ペンと原稿用紙を用意することはできる。しかし、今や、大衆的なものへの配慮を欠くような人物に、誰が、どのような場所を提供してくれるだろうか。大衆への配慮は、もはや知識人の基本的な道徳となっているのだ。

 

 私も、つい、知識人のあるべき姿として、どちらかに突き抜けるということを想像してしまう。しかし、結局は、バランスよく、うまくやっていくしかないのかもしれない。つまりは、解決困難な問題として抱えたまま、やっていかなければいけない。私はかつては大人の条件として「矛盾を抱えられること」があるのではないかと考えたことがあったが、知識人的なものも、やはり、矛盾を、ジレンマを、解決できない問いを抱えながら、うまくやっていくという形で表れるのではないだろうか。

恐怖指導の思い出

ここ数日、noteの更新を(現実には勉強を)サボっている。積み重なる実感のない積み重ねは厳しい。その点、学生の時分というのは恵まれたもので、しかし、その頃も私は積み重ねに精を出すようなことはたいしてなかったなぁと思い出す。

 

時たま口にしつつ、「やってない自慢」のような気恥ずかしさも感じ進んで口にすることはないのだが、正直なところを書くと、私はあまり勉強したことがない。しかしテストではそれなりの点数を取ることができたから、ここまで何となく生きてきてしまった。

 

高校生のときに勉強した記憶というのは、3年の夏の世界史か、3年の予備校での数学くらいだ。世界史は授業を受けていないのに受験しなければならず、午前中いっぱいはとにかく山川の教科書を読みノートに書き込み問題を解いた。数学は、予備校の講師にしては珍しく? 恐怖を与えて勉強させるタイプの先生で、小テストで点数を取れないことを恐れ必死で勉強した。どちらも伸びを実感できる程度に成果が出て、だからこそ覚えているのかもしれないが、やれば成果が出るというのは、ありがたいものだ。

 

恐怖を与えて勉強させるタイプの先生といえば、中学1年生の時に通っていた塾の若い女性の先生が大変な「恐怖指導」を行っていて、今思えば大学生のアルバイトだったのだろうが、漢字の小テストで9割を切ろうものなら、もう泣き出しそうな気持ちで叱責を待った。しかしおかげで漢字も最低限書けるようになった(今でも苦手だが……)。私が同じ塾でアルバイトをした頃には既に、彼女ほどの「恐怖指導」は行えない雰囲気であったが、かの塾に長く働く社員講師たちはやはり恐ろしい人が多く、先輩の背中を見た私までそれなりに恐ろしい講師として働いていた。

 

私がそれ以外にほとんど勉強しなかったように、「恐怖指導」は本質的ではない(継続する動機づけにならない)のだろう。しかし、日本の受験という切迫した状況下では、そういうものがありがたかったりもするかもしれない(私はありがたかった)。学校の教員になってからは、そういったことはまったくやっておらず、いつもニコニコニヤニヤしているが、しかし、恐怖はさておき、程よい緊張感は、何とか演出したいものだと思うこの頃である。

大学入学共通テスト2021を解く

総評

共通テストを解いて感想を述べてみた。入試の専門家ではないから、個人的な感想になるが、難易度はこれまでとさほど変わらず、これまでどおりの勉強の成果がこれまでどおり出るような試験だったのではないか。解答時間は受験生にはやはり厳しいものだろう。

現代文

小説の問題が特にそうであったが、共通テストにはどうも、古典的な読解——つまり、作者が作品にこめたある一つの倫理的な思いを読み取る・評論が明らかにする世界の真の様相を読み取るというような読解から脱却し、例えば今回の小説問題に付された資料は作品の失敗を批判するもので、それに対する反論も求められているように、読解の相対化を求めるような方向性があるように見える。これは非常に「現代的」な方向性で、負の方向に行き過ぎれば現代の「ポスト・トゥルース」の問題へと繋がっていくわけだが、読解の相対化は批判能力と密接に関わるものであり、国語の教育現場にも、そうした学びが要求されているのだろう。また、評論の問題に芥川龍之介の小説「歯車」の一節が引用されていたが、初めて入試問題で文学を批評するような頭の使い方を要求されたように思う(勿論、私の知らないところで出題されている可能性はおおいにあるが)。

古典

案外これまでとさほど変わらず。内容自体は易しいもので、論の筋、心情変化の筋が掴めれば、内容に関する問題はすんなり解けてしまい、「新傾向」だからといって難しさはないが、「新傾向」はかつてのものよりも解いていておもしろい(個人的な感想か? 多くの受験者がそう感じるものと信じたいが……「複数テキスト」は授業に取り入れてもやはりおもしろくなる)。古文の和歌に関する問は、本文の異同に触れているものといえる。このこともまた、唯一の正当性(正当な読みと、それを担保する正当な本文)から相対性への方向性を感じさせる。

一方で、単純に知識を問う問題(語彙・文法など)はやはり出題されており、これらは基本的に知らなければ解けない。読解問題のように見えて、最後は単語を知っているかどうかで決まる問題もある(「よろしき人」の問など)。無論、内容理解から推測することはできるが、問題となっている箇所を抜かして内容を完璧に理解できたとしても、確実に答えを出せるとは限らない。というわけで、相変わらず暗記は必要なようである。

各大問について

評論 香川雅信江戸の妖怪革命』(芥川龍之介歯車」)

まずは「リアルなもの」としての「古典的な妖怪」と「フィクションとしての妖怪」の対比を読み取り、続いて近代における、近代において認識され始めた人間の不安定さに由来する「リアルなもの」としての「妖怪」の回帰を読み取る。フーコー精神分析といった現代思想のキーワードに親しんでいると、よくある議論といった感じがするが、親しんでなくとも、ある概念が歴史的に形成された、といった議論は、教科書の文章にもある、かもしれない。

いつもどおり易しい問題が並び、問5がセンター試験よりも凝ったものになっているが、(ⅰ)はいわゆる意味段落の役割の理解、(ⅱ)主旨のまとめ、(ⅲ)小説「歯車」を具体例として、やはり評論本文の主旨を見極めるもの、となっている。(ⅰ)(ⅱ)は問われるものはセンター試験と大差ないが、(ⅲ)はやや新鮮で、評論本文にあった「私」の不安定さというものが表現された小説とでも読めれば選択肢も絞れるが、そうした文学の読み方に慣れていないと、難しいか?

小説 加能作次郎「羽織と時計」(宮島新三郎「師走文壇の一瞥」)

基本的にはセンター試験の頃と変わらず、心情変化の筋を把握し、選択肢の疵を発見していけば解ける。身の丈に合わない(故に余計に落ち着かない)高価なものを贈られたこと、その結果、見舞いから足が遠のき、それによってますます募る後ろめたさである。目新しいのは問6で、小説の短い批評が提示され、(ⅰ)その内容理解と、(ⅱ)その批評に対する反論として適切な選択肢を選ぶことが要求されている。

古文 『栄花物語

古典が得意でないので現代文以上にたいした分析ができないが、現代文以上にオーソドックスに感じられた。単純に現代語訳することさえできれば内容はさほど難しくない、妻を亡くした夫の悲哀。細かい文法はそれほど問われていないが、これまで同様に古文を読み慣れていないと厳しいとは思う。最後にやはり「複数テキスト」めいた新傾向の設問があったが、単純な和歌の内容の比較で、単純に文語の和歌を語句どおりに読む力だけが問われていたように感じる。しかし、単純な知識を問う問題が、単純に知識を問うているだけに、知識がないと厳しい。

漢文 欧陽脩『欧陽文忠公集』、『韓非子

古典が得意でないので現代文以上にたいした分析ができないが、典型的な「複数テキスト問題」で、読んでいておもしろい、御術における馬と人の心身の合一の重要性を説く韻文と散文。古文もそうだが、内容理解は、本筋さえ捉えられれば簡単なのだが、単純な知識を問う問題が、知識のない私などには難しい。

死者と語らう――夏目漱石『こころ』

生徒たちの『こころ』の読解の様子を見ていると、案外、Kの自殺の原因を、「先生」=「私」による裏切りやそれに伴う失恋などではなく、K自身の信念にK自身が背いたことに置く。「教科書」どおり(?)信念に反して矛盾を抱えてしまったこと、その矛盾を厳しい言葉で指摘されたこと、そして信頼する友人による裏切りを原因と考えてきたものだから新鮮に感じられるのだが、確かに、Kの遺書の言葉を信用すれば、彼は自身の薄志弱行によって死んだのだ。

このような読み方の違いは、決して第三者にはなり得ない「先生」=「私」の語りからはそれ以上のことが読み取れないことに起因する。『こころ』は「襖」によって「私」とKの心の壁を、あるいは心の交流を象徴していると読まれもするように、コミュニケーション(の不全)をテーマとして読むこともできる。とすれば、死とは、究極的にコミュニケーションの不全状態である。死者は語らない。「襖」を開け、心を通わせることができない。死者しか知らない自死の本当の理由は、その死者にしかわからない。彼の遺すものも嘘ばかりかもしれないのだ。「教科書」的な読みは、Kの遺書を嘘として、「先生」=「私」の語ることを真実として読むことを前提としているが、その真偽は真逆であるかもしれないわけだ。他者とのコミュニケーションは常に不全性を孕んでいるだろうが、死者とは、究極の他者である。

と同時に、あるいは、死者とのコミュニケーションは、究極のコミュニケーションなのかもしれない、とも思う。死者の死の理由は、究極的には、わからない。だからこそ、「先生」=「私」は、その死の原因を自身に置き、Kの「黒」い影を背負って生き、終には自らも死を選んだ。Kが死んでしまったからこそ、「先生」=「私」に、まさしく幽霊の如くKが取り憑き訴え続けるのだ。「襖」は、開けられたままなのだ。それは、生者であった二人にはできなかったことだ。

死者は語らないことによって語る。Kは語らず、「永遠に静か」であるからこそ、「先生」=「私」に語り続ける。あるいは「先生」=「私」もまた、Kに語りかけ続けてきたのだろう。そして、「先生の遺書」を受け取った「私」もまた、「先生」に語りかけられ、語りかけ続けて生きるに違いない。