国語教師、『「若者の読書離れ」というウソ』を読む

 

手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて日常生活が不自由になっていく病気であるALS(筋萎縮性側索硬化症)の特効薬の特許をもつ大富豪が安価な市販化を渋ったために、ALS患者である妹が死に瀕している医者(主人公)が、富豪を毒殺。

これは本書で最も印象に残った一文なのだが、びっくりするほどの悪文である(基本的に私は悪文だろうと意味が伝わればいいと考える派の人間であり、「悪文である」というのも、単に事実の摘示であって、強く非難しているわけではない。私もまた、この文章を読めばわかるように、結構な悪文家であるし……)。ALSの説明を地の文に書かなければならないという事情があったのかもしれないが、それにしても分かりにくい。全体として「書き殴った」ような印象の本である。

本書では、まずはデータによって「若者の読書離れ」と呼びうるような現象は実は起きていない、といったことを明かし(そこには「行動遺伝学」なる学問が絡み、遺伝で決まると言われたって、私などは「だからなんだ」と思ってしまうのだが、経済や政治、そういう社会一般的には、必要な認識、なのだろうか?)、そこからは、10代に読まれる本の「三大ニーズ」と「四つの型」を提示し、実際に読まれている本を例に挙げ、そうした本がいかに「ニーズ」と「型」に当てはまっているかを見ていく……のだが、そこには読解の浅さとそれに伴う牽強付会が感じられる。たとえば小中学生の読む本などにはやはり私も明るくはないので、彼ら彼女らにどういった本が読まれているのか、単純に紹介として受け取れば役に立つ記述ではある。

しかし、本書は一方で、こういう、いかにも国語教師的な感想を抱いてしまう自身を、反省させる本でもある。赤木かん子(また意見の分かれる人物である……)の書籍を引きながら、筆者はこう述べる。

そもそも10代に読まれてベストセラーになるためには、丁寧な内面描写や情景描写などは必要がないのである。感情の振れ幅の大きさ、刺激の強さは必要だが、重厚な筆致で掘り下げてもむしろマイナスに働く可能性が高い。/設定的にも文体的にも、国語教師や司書、児童文学関係者の大半があまり快くは思わないタイプの…(中略)…作品は、しかし、小中高生の関心を引くものになっている。

まったくそのとおりで、これもまた事実でしかないのだが、しかし、このような事実の認識が重要であるという筆者の指摘には、私も(不承)頷くしかあるまい。国語教師としては、「内面描写や情景描写」にこそ本を読む悦びを見いだしたい、見いだしてもらいたいわけだが、そこに至るまでには大きな壁がある、という認識である。

「びーあんあいどる!!」を観る

知り合いが関わっていたので、システマ・アンジェリカ×劇団くるめるシアター企画公演「びーあんあいどる!!」を観た。感想を述べるべきなのだろうと思うのだが、私にはこういう形でしか感想めいたものが書けず、失礼だというのはよくわかっているのだが……。

 


 

推しは推せるときに推せ――アイドルは失われる。今日に聞く大森靖子「IDOL SONG」のエモさというのは、その歌詞を構成するアイドルたちの自己紹介やキャッチフレーズが、かつて存在した、もはや失われたアイドルたちの自己紹介・キャッチフレーズになっているところにある。いや、まだまだ現役のアイドルもいる——しかし、やがて失われるのは間違いあるまい、楽曲の電子データはいつまでも残るのに比すれば。それはレコードやチェキも同様で、それらは、そこに記録された人物が、その声が、かつて存在していたということを確かに信じさせる(その確かさは合成技術の進歩や生成AIによっていっそう脅かされているという現状はさておき)。そして、その存在は、失われる/ている。

この芝居は二幕からなっていて、一幕は「北斗の拳」から借用した(ケンシロウラオウも「雑魚」も出てくる)核戦争後の荒廃した世界を舞台にして、二人の少女が「戦前」のアイドルのチェキとレコードを発掘し、「戦前」アイドルが夢にも現れ、ケンシロウとともにラオウを倒してアイドルを目指す物語(よくわからない要約である……)。後半は、戦争前夜、売れない地下アイドル二人がミサイルの迫る中、最後までアイドルをやりきろうとする物語。その最期のライブの直前で彼女たちは、アイドルをやってきたこれまでを笑って思い出すのは私たちでなくてもいいといったことを語り、その思いが、「戦後」の二人の少女に受け継がれ、「夢」として、思い出させたわけである。

本作ではアイドルは戦争によって失われるが、そもそもアイドルは、自ずと失われるものである。作中でも、戦前のアイドル少女に「水着やコスプレがきつくなってもアイドルを続けたい」などといった台詞がある。いたましい価値観だとは思うのだが、しかし、この台詞の背景には、水着やコスプレのキツくなる程度の年齢が、アイドルの終わりであるという現実がある。もちろん、アイドルの終わりは年齢による引退だけではない。

そこがまた演劇という芸術形式にも関わってくるのである。演劇は、上演されるそのときにだけ存在し、上演が終われば失われ、ただ記録に、記憶に残るだけだ。演劇とアイドルの親和性がそこにあり、だからこそアイドルという主題は演劇において活きやすいのだろう。二幕構成、休憩を含めて140分。展開にはどこか冗長な印象があった。ギャグはあまりうまくいっておらず、役者の演技はまずくはなかったがそこまで印象的なものではなく(いや、上手いし芸としておもしろかったのだろうが……)、戦争をめぐる描写や登場人物たちの台詞に透ける社会の捉え方には甘さも感じ、けれども、終幕の「IDOL SONG」は、(歌と踊りで大団円というお決まりのパターンの踏襲であったとしても、)記録/記憶され思い出されるアイドルの主題にぴったり一致し、少しばかりうるっとしつつ、腰の痛みも救われたような気持ちになったのであった。

ロラン・バルト明るい部屋
※また巧みなのが映像を用いた演出で、よくキマるものである。

 

児玉雨子『##NAME##』を読む

美砂乃ちゃんといた世界の断片だけは憐れまれたくなかった。目を離せば、あっという間に散り散りになってしまう小さな世界。誰からも覗きこまれたくなかった。そしてどんな美しい言葉であっても物語られたくなかった。怒りと同じで、物語ることができるのもその世界の断片を手放せる者だけだ。

児玉雨子##NAME##』を読む。「ジュニアアイドル」として活動した過去と夢小説への没頭を軸にしたある女性の物語で、基本的には「女性」を扱いつつ、白黒のつかない繊細な問題群。作中で児童ポルノか否かの線引きについて語られる節があり、そこには「二〇一七年」と付されているが、二〇一七年どころではない永い永い飽きを感じつつも、二〇二三年になってなお、猥褻か否か、搾取か否かの線引きなど熱い問題であり続けていて、思うに、線引きの問題というのは、常に現在の問題であり続けるのだろう。イメージしてみれば、ここで言う線というものは、刻んだり描かれたりするようなものではなく、間にぽんっと置かれた紐のようなものなのだ。

しかし、『##NAME##』の語り手「私」は決断する。自身も「グレーゾーン」において関わった児童ポルノを「子供の被害者がいる話」と断じ、「真意」をもって改名を決め、過去の名前と母と、訣別する。冒頭に引用した箇所を読むに、そうして「手放せた」からこそこの物語は「私」によって物語られているわけだが、グレーな、白黒つかない繊細な問題を扱った物語の結末として、そうか、という感じもする。

 

『耳をすませば』を経済的階級差を越える物語として見る

妻が録画していた『耳をすませば』を見るのに便乗してつい私も見てしまった。何度も見てきた作品だが、今までで一番落ち着いて見られた気がする。自身の思春期から遠く離れてしまったからだろうか……そして、落ち着いて見ていると、この映画に、同じ公立中学に通う子供達の家庭の経済力の差が描きこまれていることに気づく。

 

まず、主人公である月島雫の家はどうか。団地である。父親は図書館勤務であるから、専門職公務員だろうか。母親は大学院に通っているという設定だが、決して裕福な様子ではないのは、新しくもない団地に住み、大学生の姉がバイトのお金で家を出て一人暮らしを始め、雫が電車で行く図書館に父は自転車で通っている、といったところから見てとれる。

 

そんな彼女のことを好きになる少年が二人いる。天沢聖司と、杉村だ。物語のはじめの時点で雫は天沢のことを認識していないから、おそらくは彼とは中学で同じになり、同じ学級にはなったことがない。一方で杉村は、親しげな様子や「ずっと友達だったから」という雫の台詞から、小学校以前から付き合いがあったのだろうと想像される。

 

結局、雫は杉村をふってしまい、聖司を選ぶ(結婚の約束までしてしまう)。家庭の経済力の話に戻ると、杉村の家については、描写がない。しかし、何となく(!)、経済的には雫とそう変わらないような気がする(よもや、あの雰囲気で金持ちということはあるまい……)。一方で聖司はというと、「天沢医院の末っ子」という台詞があるように、父親が開業医らしい。母方の祖父がいかにも稼ぎのなさそうな「地球屋」で職人をしているが、それはむしろ経済的な余裕の表れだろう。彼は戦前にドイツにいたというから、彼もまた医者の家系の出なのかもしれない。そんなエリート一家の末っ子として生まれた聖司が、ヴァイオリンをかなりの腕前で弾きこなし、ヴァイオリン職人を目指そうなどと考えられるのは、この「実家の太さ」故だと言える(進学や就職へのプレッシャーの大きい雫とは対照的である)(聖司は進路について親に反対されている。親としては、末っ子であるから家を継ぐということはないだろうが、やはり医学の道などを考えさせたいのかもしれない。しかし、結局ヴァイオリン職人を目指せそうなところに、末っ子という設定が生きている)。

 

この、細かく設定され言及され想像させられる家庭の経済力の差は、何なのだろうか。原作が少女漫画であるという知識だけはあるから、つい、そう裕福ではない少女が、たいそう裕福な男に愛されるというような、典型的シンデレラストーリーを背景に描きこもうというような意図を感じてしまう。実のところ、そうなのではないか?

 

耳をすませば』を経済的階級差を「越える」物語として見てみると、たとえば、猫のムーン(お玉やムタなどとも呼ばれる)が、その経済格差を「越える」月(!)島雫のような生き方を象徴する存在であったことがわかってくる。雫の町から聖司の町へ、雫と同じく電車にのり、裏道を通って柵を越えていくこの猫は、同じく聖司の町へ、あるいは天(!)沢聖司の階級へと昇っていく月島雫そのもの、あるいは、彼女の案内人のようではないか。猫を追いかけていく雫は、坂の途中の図書館を過ぎて、さらに登って「地球屋」にたどり着く。聖司の町は高台にあり、雫の団地は下にあって、その中間に図書館がある。地理的にも、聖司と結ばれるためには上昇する必要があったわけだ。そう考えると、飛行船を見上げる雫の描写も意味を帯びてくる。あのシーンは雫の上昇志向の暗示であり、一方で「ずいぶん低い」ところを飛ぶ飛行船は、高いところから降りてくる聖司の象徴である。そういえば、「地球屋」の時計はドワーフの王がエルフの王女を見上げる仕掛けであった。上下に隔てられた世界をまたぐ恋……。

 

では、雫はどうやって上昇し、天沢聖司に近づくのか? とにかくお金のかからない、図書館の本から得る文化であり、紙とシャーペンがあれば書くことのできる詩や物語であり、歌によって、手拍子によって、だ。彼女は幼馴染の野球少年杉村ではなく、聖司を選ぶ。階級の離れた雫と聖司を結ぶのは、お金をかけないながらも雫が身につけた、文化なのである。これが、杉村には(おそらく)身についていなくて雫には身についたというのは、裕福でないながらも郷土史を研究したり大学院に通ったりする文化的な両親の影響だろう。細かく見れば、彼女が物語を書き始めるのは、屋上で聖司から夢に向かってお試しの修行を行うと聞き、泣きながら階段を「降り」た後である。聖司のいる高い場所で共に生きるのに、歌と手拍子では足りないのだ。

 

これは、降りていく聖司の側から見ても同様だ。彼の実家(天沢医院)の描写はないが、学校の図書室に本を寄贈するほどの蔵書があると想像される。彼が図書館に通ったのは、彼の台詞どおり、雫との接点を作るためだったのだ。そしてまた、雫にヴァイオリンを弾くよう促され、高尚なバッハの無伴奏を弾きかけて「カントリー・ロード」に切り替えるのも、雫に合わせるためだろう(聖司の祖父や「音楽仲間」たちはいかにも玄人らしいが、中学3年であのように即興で伴奏を弾きこなせるというのはなかなか想像し難く、あるいは、雫との接点作りのために練習していたのではないか、とも感じる。なお、ネットで知ったのだが、この演奏のシーンではヴァイオリンは通常よりも「低く」調弦されているようだ)。彼の方は、家の環境から自然と身につけられた文化を、雫に合わせていく。

 

雫と聖司の二人は、このように家庭の経済格差を乗り越えて結ばれるのである。聖司は、高台から見える朝焼けを雫に見せたかったと言う。雫を自転車の後ろにのせて坂道を登っていく聖司の「お前を乗せて坂道登るって決めたんだ」という台詞は、彼女を経済的に支えるという意味を言外に秘めていそうだ。私だって役に立ちたいという雫の台詞も、お金に絡むものに思えてくる。そうして二人は力を合わせ、高いところへたどりつく。

 

一方でもう一人、上流階級の同級生、原田という少女が出てくる。彼女の部屋は装飾の施された家具や壁紙やかわいらしいクッションなどに彩られ、きれいな犬を抱く専業主婦らしい母親の用意したであろう紅茶や皿に盛られた菓子があって、庭には少なくとも数本の木があり、門はたいそう立派である。彼女は杉村に恋をし、エンドロールの背景で彼と結ばれたらしい描写もある。このカップルもまた経済力の差を乗り越えて結ばれたカップルであったが、こちらは、どのようにその差を乗り越えたのだろうか……(「この二人はわかれる」by妻)。

 

2022年に「ラブ&ポップ」を観る

 

映画「ラブ&ポップ」を見た。おもしろかった――古い、ということも含めて。

 

映画には、

 

決められた時間を守り、決められた場所をつなぐ乗り物。連れて行かれると言う感覚。毎日が昨日の繰り返し。明日が今日と違うとは考えられない。ものすごい不幸も、ものすごい幸せも、まだ知らない。

 

ところで、渋谷という町は、井の頭線のトンネルを抜けたところにある。だから開放的で、私たちが集うのかもしれない。まあたぶん、関係ないと思うけど。

 

といったモノローグがあって、村上龍の原作小説には見当たらず、映画化に際し「電車」のモチーフを導入した庵野秀明のオリジナルなのだろうと思うのだが、この印象的なセリフが、「ラブ&ポップ」が原作から持っている、「終わりなき日常」の主題を際立たせている。映画は、「援交」に加え、渋谷という空間を主題に取り入れ、その、見せかけの可能性を、可能性の見せかけを映し出しているようだ。

 

ヒロインの呼びかけに姿を現す男たちは、それぞれに個性があり、人間らしい悲しみがあり、それはヒロインの感情も揺さぶりながら、映画を見る者にも安心感のようなものを与えるのだが、しかし、ヒロインと同様に見る者も、即座に彼らの得体の知れない暴力性にさらされることになる。「援交」は、見ず知らずの人間との出会いを用意する、かのように見える。見ず知らずの、人間らしい人間との出会いは、日常の、決められた人間関係の外部へと連れ出すように見え、しかし、それは「援交」であって出会いなのではない。男はただ、欲望を暴力的に解消し、去っていくだけだ。そして、その舞台となる渋谷もまた、人と人の、人ともの(水着、ネイル、指輪……)との出会いの場のようでありながら、「トンネルを抜けたところ」のようでありながら、また別の閉ざされた空間に過ぎないことを、エンディングの渋谷川が物語っている。 「援交」も渋谷も、外になど繋がっていない。そこに可能性はない。

 

ヒロインの胸に、2時間の対価として、4円を置いていく男が出てくる。かの4円は、それ自体、様々に象徴的ではあるけれども、私には、SNS上で無賃労働に勤しむ現代の少女たちを思い起こさせる。「終わりなき日常」は、私にはどこか牧歌的な言葉に聞こえる。「終わりなき日常」と口にするときには、やはり、日常の外側が想定されているように感じられるからだ。外側の可能性が残されているかのような物言いだからだ。あの4円でさえ、男の人間性のようなものの可能性めいていたし、また原作では、それは「インドとか、中近東」=外の世界の児童労働の対価としての4円だったのだ。今では、かつてとは比較にならないほど、日常の終わらなさは完成され、その外側はますます巧妙に消去されているだろう。

人間と、動物か機械か

授業の中で、生徒に「人間らしさとは」と尋ねることがあった。「理性的」とまとめられるような回答と、「感情的」とまとめられるような回答に分かれるだろうと想定したのだが、「やらなければいけないことをやらずに別のことをする」「欲望のまま行動する」「馬鹿なことをする」等々、(一応)皆が「感情的」と考えたようで、少し驚いた。近代において、動物を比較対象にして「理性的」であることに人間の特性を見出し、またその反動として「感情的」であることを肯定するロマンティシズムが発生した、といった人間観の流れが大雑把にあるのだと思うのだが、生徒たちが近代的人間観に対する反動から「感情的」であることに人間を見出しているとは考えにくく、驚いたのであった。

 

考えてみるに、おそらく現代の感覚では、私自身そうなのだが、動物ではなく機械(あるいは、ロボットかもしれない)を比較対象として人間をとらえることが一般的であって、そこから「感情的」というような人間の特性が見出されているのだろう。私たちの生活を鑑みれば、動物といえば、人里に生きる鳥や猫、飼い慣らされた家畜やペット、そして何より擬人化されたキャラクターやそのぬいぐるみであり、むしろ動物に「人間らしさ」を見出しているようである、とさえ言えるかもしれず、荒々しい野生に対する人間の理性、などといったイメージが失われるのも自然のことと思われる。

 

そういえば「社会の歯車」などという決まり文句がある。高校生たちにとっても悪しき将来像としてリアルな言葉だと想像するが、この言葉などは、「人間らしさ」を失った在り方を機械部品としてイメージしたものであるようだ。『日本国語大辞典』を開けば、この用例として1960年の文章からの引用がある。いつから人間の比較対象として機械が中心を占めるようになったのか、気になるところなのだが、やはり、戦後なのだろうか。

酸漿に似た富士と花――太宰治『富嶽百景』

 授業のために、太宰治富嶽百景』を読んでいるのだが、この小説の最後の場面。

その翌る日に、山を下りた。まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿に似てゐた。

とある。「酸漿」に似た富士。


 その題が示すように、ひたすら、富士がどのように見えるかが問題となる小説であると言えよう。そしてこの小説で富士が語られるとき、小さな花が、並んで登場することがある。


 まずは、「真っ白い睡蓮の花に似ていた」富士の写真が出てくる。後に配偶者となる「娘さん」との見合いの場面であるが、富士の姿と「娘さん」の姿が「睡蓮」に象徴される白い純真によって結びつけられた表現であると言えよう。そして、この類似から、作家において、この後に続く、富士と花を対置するという発想が見出されたのかもしれない。

 続いて「月見草」が登場する。「月見草」は、バスの中、富士を前にはしゃぐ観光客に対し、じっと断崖を見つめる老婆の有様を象徴するものである。つまりは、巨大な富士、あるいは巨大な何かと、それに対峙して折れない人間、あるいはその人生というような、対比の関係が見出されるわけだ。このような対置は、続く場面では、「なにかしたつまらぬ草花」を積み集める痩せた遊女を富士に「頼む」ところにも表れている。「つまらぬ草花」に名が付されていないことも象徴的だろう。遊女を哀れに思い、共感しながら、自身の無力さを痛感する語り手の視線の中で、巨大なものを前に「つまらぬ草花」に象徴される遊女は、「月見草」と比べれば、あまりに暗く、湿っぽい。だからこそ、語り手は思い悩むわけである。富士と「月見草」に希望を見出しながら、しかし次の瞬間には、富士と「つまらぬ草花」のような絶望を見出してしまうのだ。


 そして、最後の場面になり、レンズをのぞき、「真ん中に大きな富士、その下に小さい、罌粟の花二つ。二人そろいの赤い外套を着ているのである」という表現が出てくる。富士を前に「きゃっきゃ」と笑い、レンズの向こうで急にまじめな顔になる二人の若い女性の姿が、愛らしく、ユーモラスに描かれた場面であり、人間に対する賛歌のように写る場面である。

 

 ここでも、富士と罌粟は対置されているのだが、そこに、富士と「月見草」、あるいは富士と「つまらぬ草花」の対置のような重さはない。巨大なものと対峙して、「月見草」のように揺るがずに立つのではなく、また「つまらぬ草花」のようにうちひしがれながら生きるのでもなく、同じく巨大なものを前にして、凍える冬の峠で、軽妙に咲き誇る。そして最後に、甲府から見る富士は、「酸漿に似てい」る。甲府の「娘さん」との明るい将来を感じさせる描写である――とでも言えば教科書的であるが、しかし、このように、富士と花の関係を追っていくと、「罌粟」と対置された後の富士が「酸漿」に似て見るのは、むしろ富士の小ささを、あるいは(逆に?)、「月見草」「つまらぬ草花」「罌粟」といったものと等価で並ぶものとしての巨大な富士を、象徴するものに見える。最後の場面で、富士を軽妙に享受する二人の若い女性や語り手の姿は、そのように巨大な何かと人間の関係を捉えてみようというような、作家としての語り手の気概を感じさせはしまいか。


 とまあ、しかし、このように読んではみても、この読解に多く弱点が含まれていそうなのは、調べてみなくともわかる。また、考査や成績のことを考えると、結局、「指導書」的な解釈を「教え」てしまわなくてはならない。そう、してしまわなくてはならない実力だと言ってしまえばそれまでだが、このつまらなさは、国語における文学の指導の「難しさ」の一つである。