「びーあんあいどる!!」を観る

知り合いが関わっていたので、システマ・アンジェリカ×劇団くるめるシアター企画公演「びーあんあいどる!!」を観た。感想を述べるべきなのだろうと思うのだが、私にはこういう形でしか感想めいたものが書けず、失礼だというのはよくわかっているのだが……。

 


 

推しは推せるときに推せ――アイドルは失われる。今日に聞く大森靖子「IDOL SONG」のエモさというのは、その歌詞を構成するアイドルたちの自己紹介やキャッチフレーズが、かつて存在した、もはや失われたアイドルたちの自己紹介・キャッチフレーズになっているところにある。いや、まだまだ現役のアイドルもいる——しかし、やがて失われるのは間違いあるまい、楽曲の電子データはいつまでも残るのに比すれば。それはレコードやチェキも同様で、それらは、そこに記録された人物が、その声が、かつて存在していたということを確かに信じさせる(その確かさは合成技術の進歩や生成AIによっていっそう脅かされているという現状はさておき)。そして、その存在は、失われる/ている。

この芝居は二幕からなっていて、一幕は「北斗の拳」から借用した(ケンシロウラオウも「雑魚」も出てくる)核戦争後の荒廃した世界を舞台にして、二人の少女が「戦前」のアイドルのチェキとレコードを発掘し、「戦前」アイドルが夢にも現れ、ケンシロウとともにラオウを倒してアイドルを目指す物語(よくわからない要約である……)。後半は、戦争前夜、売れない地下アイドル二人がミサイルの迫る中、最後までアイドルをやりきろうとする物語。その最期のライブの直前で彼女たちは、アイドルをやってきたこれまでを笑って思い出すのは私たちでなくてもいいといったことを語り、その思いが、「戦後」の二人の少女に受け継がれ、「夢」として、思い出させたわけである。

本作ではアイドルは戦争によって失われるが、そもそもアイドルは、自ずと失われるものである。作中でも、戦前のアイドル少女に「水着やコスプレがきつくなってもアイドルを続けたい」などといった台詞がある。いたましい価値観だとは思うのだが、しかし、この台詞の背景には、水着やコスプレのキツくなる程度の年齢が、アイドルの終わりであるという現実がある。もちろん、アイドルの終わりは年齢による引退だけではない。

そこがまた演劇という芸術形式にも関わってくるのである。演劇は、上演されるそのときにだけ存在し、上演が終われば失われ、ただ記録に、記憶に残るだけだ。演劇とアイドルの親和性がそこにあり、だからこそアイドルという主題は演劇において活きやすいのだろう。二幕構成、休憩を含めて140分。展開にはどこか冗長な印象があった。ギャグはあまりうまくいっておらず、役者の演技はまずくはなかったがそこまで印象的なものではなく(いや、上手いし芸としておもしろかったのだろうが……)、戦争をめぐる描写や登場人物たちの台詞に透ける社会の捉え方には甘さも感じ、けれども、終幕の「IDOL SONG」は、(歌と踊りで大団円というお決まりのパターンの踏襲であったとしても、)記録/記憶され思い出されるアイドルの主題にぴったり一致し、少しばかりうるっとしつつ、腰の痛みも救われたような気持ちになったのであった。

ロラン・バルト明るい部屋
※また巧みなのが映像を用いた演出で、よくキマるものである。