「一度だけ」のリフレイン——マームとジプシー『カタチノチガウ』

「一度だけしか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」――『カタチノチガウ』は長女・いづみの、次女・さとこに向けられたこんな台詞から始められる。

 マームとジプシーはリフレインと呼ばれる、場面の反復を特徴とする演劇で知られている。そしてリフレイン、反復は、単なる手法に留まらず、彼らの演劇のテーマとなっているように思える(過去記事①過去記事②)。
『カタチノチガウ』は、リフレインを予測して観に来た観客たちを裏切るかのような台詞から始められる。しかしやはり、『カタチノチガウ』もまたリフレインを軸に構成されている。さとこといづみの出会い、食卓での一コマ、いづみの家出――登場人物たちにとって印象的ないくつかの場面はやはり反復され、観る者にも強い印象を残す。そもそも、「一度しか話さないから、よく聞いてほしいんだけど」という台詞さえ、反復される。冒頭にこの台詞があり、そこから長い回想として物語が展開され、最後に冒頭のこの場面に戻ってくる、という構成であるためだ。

 舞台は丘の上の屋敷であり、登場人物は長女いづみ、次女さとこ、三女ゆりこの三人であり、三名の女優がそれぞれを演じる。いづみは母の連れ子、さとこは父と今はいない女の間の子、ゆりこは父と母の間の子であり、それぞれ親が異なっている姉妹だ。時間軸に沿ってストーリーを説明してみよう。まずいづみとさとこの出会いがあり、いづみとさとこのケンカによってゆりこの人形が壊された事件があり、いづみが父親の性器を握らされる事件(時期は不明である)や、夜中に学校の友人と遊ぶために家を抜けだした事件があって、やがていづみが家出をし、ゆりこによる父親殺しと彼女の逮捕、大きな洪水と戦争を屋敷でとここまでが、回想の中で語られるものである。そして、冒頭の台詞の場面、「カタチノチガウ」(パンフレット等にある『カタチノチガウ』の英訳?「malformed」は単純に訳せば「奇形」である)子供を連れたいづみが屋敷に帰ってきた場面に戻ってきて、いづみはさとこに子の運命を託し、さとこは子を殺そうとするができず、いづみは屋敷の窓から飛び降りる。これらのエピソードが、回想やリフレイン、様々な形態(ダンス的、音楽的)の語りによって複雑に組み立てられ、上演される。

 この物語の三姉妹は、そもそも親が違っており、そういう意味で一般とは「カタチノチガウ(malformed)」三姉妹である。劇中にパッヘルベルの「カノン」が二度(一度目は冒頭、ゆりこが玩具のピアノで弾き、二度目はクライマックスの場面で、再生される)使用されているが、三つのヴァイオリンによって同じ旋律が二小節ずつずらされて繰り返される「カノン」のようには、三姉妹は繰り返されていないようにとりあえずは思える。前述のように出自も異なっているし、人生も大きく異なっているし、性格も大きく異なっているし、(例によって役名と同名の)女優に関して言えば、容姿も大きく異なっている(「カノン」も、それぞれの旋律がどこで終わるかは異なっているのだが)。

 ところで、「カノン」が演奏されるとき、それぞれのヴァイオリンの演奏を、同じ音の反復と捉えるかはどうかは、聴き手次第である。演奏者に実力差があればわかりやすいが、そうでない場合であっても、意識的な聴衆であればそれぞれの演奏に質的な差異があることを聴きとるだろう。そもそも奏者が違い、楽器も違うのだから、厳密に「同じ音の反復」なはずがない。だが、例えば「カノン」が楽譜であるときには、それぞれはずらされた同じ音符の並びでしかないし、例えば「カノン」が本作の上演におけるようにBGMでしかないときには、やはりそれぞれの差異などに意識は届かず、ただそれが「カノン」である、という程度の認識しかしないのではないか。「カノン」であるとさえ考えず、単に「音楽である」としか認識しない者もいるだろう。こうした認識には、聴き手の音楽に対する知識や訓練や、興味、聴き手の置かれている状況が大きく関わっている。

 これと同じことが、演劇における反復にも言える。戯曲上同じ「台詞」であっても、それが単なる反復かどうかは、演出次第であり、役者次第であることはもちろん、実際に上演されるとき、それが厳密に「反復」であることはありえない。生身の人間である以上、多かれ少なかれ、言い方は必ず異なってしまう。『カタチノチガウ』から例を出せば、「ドラゴンボールって知ってる?」といういづみの台詞が独特のイントネーションを持っていて笑いを誘うのだが、この台詞が反復されるとき、その言われ方はやはり同じようなイントネーションを持っていながら、その台詞の前に演じられる感情や、運動に応じて、変化している。マームとジプシーの特徴の一つである、役者たちの劇中における激しい運動は、反復の差異を増大させる。

 こうした反復の問題と、本作の中で繰り返し語られた、「生きることがはたして本来なのだろうか」という問いとを繋げて考えてみたい。
 自殺の直前、いづみは窓から見える、葉が地面に落ちて土と同化するように、際立っていた一つ一つが、風景に同化していく冬の自然の様子を語っている。こうした様子が「生きることがはたして本来なのだろうか」といった問いに繋がることは理解できる。死んでいる状態が、我々の、本来の姿なのではないか? 「その人形にとっては、破壊されている状態が本来かもしれない」と、破壊された人形に対して、さとこも同様のことを(言い訳として)語る。自我をもって、たかだか数十年の生きている状態が特殊なのであって、本来生命は死んでいる状態なのではないか。風景に溶け込んで、領域を失っている状態が本来の姿なのではないか。

 それはある程度真であろう。というよりは、本来の姿などどうでもいい、というのが答えかもしれない。そのように問うてしまうことはわかる。しかしそうであったとしても、その特殊な状態として生きることを肯定する力が、『カタチノチガウ』にはあったように思う。さとこは「カタチノチガウ」子供を殺すことができない。本来の姿に戻すことができない。いづみは子供に自らの見ることのできなかった「光」を見ることを託し、死んでいく。

 「光」がなければその姿は誰にも見ることができず、存在しているとは言えない。それは、反復として捉えられ、その一つ一つが一つ一つとして認識されないこととも似ている。いづみ、さとこ、ゆりこら一つ一つの特殊な生が、姉妹の反復として捉えられ、生まれ死ぬ世代の反復として捉えられてしまう。例えば大洪水や戦争といった大きな歴史の中で、彼女たちの生や死は、数ある生や死の一つでしかなく、容易に風景に同化されてしまう。それを否定できるのは、最終的にはそこに「光」をあて、「カタチノチガウ」それら一つ一つの差異を認識できるのは、観る者でしかない。そして、「カタチノチガウ」状態が本来でないとしても、その本来に抗っていく力が『カタチノチガウ』にはあったように思うのである。「一度しか」存在しない特殊な生のリフレインは、それが時の流れに溶け込み、風景となって忘却されていくことに抗う。運動量や感情の高まりによるリフレインの不完全さは、反復を反復として認識させることに抗う。

 劇中で「一度だけ」しか語られなかったことがあった。例えばいづみの自殺や、さとこによる子殺しや、ゆりこの夢想である。しかし過ぎ去ったそれらは、しばらくは我々観客によって思い出されるだろう。『カタチノチガウ』は、「一度だけ」の特殊な物事の忘却への抵抗として演劇が存在し得ることを示している。