人間と、動物か機械か

授業の中で、生徒に「人間らしさとは」と尋ねることがあった。「理性的」とまとめられるような回答と、「感情的」とまとめられるような回答に分かれるだろうと想定したのだが、「やらなければいけないことをやらずに別のことをする」「欲望のまま行動する」「馬鹿なことをする」等々、(一応)皆が「感情的」と考えたようで、少し驚いた。近代において、動物を比較対象にして「理性的」であることに人間の特性を見出し、またその反動として「感情的」であることを肯定するロマンティシズムが発生した、といった人間観の流れが大雑把にあるのだと思うのだが、生徒たちが近代的人間観に対する反動から「感情的」であることに人間を見出しているとは考えにくく、驚いたのであった。

 

考えてみるに、おそらく現代の感覚では、私自身そうなのだが、動物ではなく機械(あるいは、ロボットかもしれない)を比較対象として人間をとらえることが一般的であって、そこから「感情的」というような人間の特性が見出されているのだろう。私たちの生活を鑑みれば、動物といえば、人里に生きる鳥や猫、飼い慣らされた家畜やペット、そして何より擬人化されたキャラクターやそのぬいぐるみであり、むしろ動物に「人間らしさ」を見出しているようである、とさえ言えるかもしれず、荒々しい野生に対する人間の理性、などといったイメージが失われるのも自然のことと思われる。

 

そういえば「社会の歯車」などという決まり文句がある。高校生たちにとっても悪しき将来像としてリアルな言葉だと想像するが、この言葉などは、「人間らしさ」を失った在り方を機械部品としてイメージしたものであるようだ。『日本国語大辞典』を開けば、この用例として1960年の文章からの引用がある。いつから人間の比較対象として機械が中心を占めるようになったのか、気になるところなのだが、やはり、戦後なのだろうか。