塾講師が勧める学習法まとめ:高校国語知識編

●漢字
基本的に書いて覚える。一冊を何周も学習する。2〜3周か回したら書けないものにチェックし、書けないもののみを繰り返す。
漢字の学習は語彙の学習にもなる。特に国語が苦手な場合、知らない熟語が出てきたならば漢字の練習をするだけでなく意味を調べ、用法を調べ、使える語彙にする必要がある。

上級入試漢字
・広くおすすめできる。
・最難関校受験対策として必要十分な内容。
同音異義語、四字熟語なども必要なだけ学習できる。難易度は常識的。
・洗練されたデザインで、赤シートを用いた学習が可能。逆に解答隠しを自作することは難しく、難読語・四字熟語の書きなどは学習しにくい。

必修漢字1200選
・漢字、日本語が好きな人にはおすすめできる。
・最難関校受験対策として必要十分か必要以上の内容。
・難易度は高いが、同音異義語故事成語、ことわざ、三・四字熟語なども学習できる。レベルの高い語彙を学べる。常用漢字表なども付いており便利(?)。
・下部に解答があり赤シートで隠せるわけでもないため解答隠しを自作する必要がある。
・不適切な例文があり単純に文意がわからず解答を書けない場合がある。

●語彙
語彙に自信のない場合、出てきた語句の意味は最低限調べ、ノートやカードに例文を写す(出典も記し、再び当たれるように)。

文学史
出題数が多くなく、日本文学に興味がないとなかなか定着しないので、受験生としては問題だけ解いてキーワードで覚える、あるいは捨てる、といった選択肢も考えるべき。

原色 新日本文学史
・流れをつかむのに適している。情報量が多く速習には向いていない。

原色シグマ新国語便覧
・流れをつかむのに適した参考書ではないが、国語全般に関して情報量が多く、辞書代わりに手元に欲しい。

執筆中

長く気持ち悪く痛々しい良質のライトノベル——『イリヤの空、UFOの夏』

この小説はタイトルに反して?驚くほど爽やかではない。そしてライトでもない。

まず設定や登場人物たちが爽やかではない。軍事政権下のような情勢で、中学生と設定された彼ら彼女らは平気で汚い言葉を口にし、欲望をむき出しにし、暴力を振るい合い、オナニーし、精神を病み、血を流す。

そして長い。描写が長く、本筋から外れた?サイドストーリーが多く、ヒロインの状態の悪化はほのめかされるが、いつまでたっても核心に至らない(核心に至るのはその3末〜その4である)。そしてその描写が気持ち悪く、痛々しい。例えば食事。

もう何を食っているのかよくわからない。口の中は火傷にまみれていたし、唇は顔からはみ出すくらいに膨れ上がっているような気がする。それでも食う、レンゲの中身を口の中に押し込み、咀嚼して飲み下す。脳はすでに、口の中にある物が食物であるという認識をしない。それはただのぐちゃぐちゃとした固形物にすぎなくて、腹の中に地獄が詰まっているような満腹感ではなく、ましてや味や匂いでもない、口の中に感じる重さと歯ごたえに救いようのない吐き気を覚える。

例えば痛々しい、体内から発信器を取り出す次の描写。

 刃を進めた。
 恐怖の悲鳴を上げた。
 悲鳴はタオルに吹き込まれる呼気となり、滴り落ちる唾液となって膝を濡らした。
 等身大で先の想像がつく、まさに最悪の恐怖だった。その恐怖に比べたら、傷がもたらす苦痛など物の数ではなかった。自分はこれからどうなってしまうのか。今度のこれは汗ではない、シャツの肩口に染み渡っていく生温い感触。どんどんあふれてくる。肩にホースで血を浴びせられているような気さえする。恐怖が苦痛で苦痛に恐怖する。

こんな描写が引用の比ではなく長く続く。そして引用からわかるように独特の文体(下手さ)が読みがたさを増す。

しかし、やはりこの小説に重要なのは、この下手な、気持ち悪く痛々しい描写の長さ、サイドストーリーの多さなのだろう。終盤、主人公はヒロインにエレベーターから「落とされ」るのだが、物語上も、まさに主人公とそれに感情移入してきた読者を突き落とすようなエンディングに向かっていく。しかし、その突き落としが突き落としであるためには、そこにたどり着くまでの長さが必要であったし、その決して爽やかではない気持ち悪さ、痛々しさは、読者の現実世界、あるいは思春期の爽やかではないあの生々しさでもある。物語において突き落とされると同時に、小説からも読者は突き落とされる。そうした体験をもたらすべく書かれたかのような、エグい——もちろん、良い意味で——小説である。

塾講師が勧める学習法まとめ:高校英語編

私が自身の受験経験と数年の塾講師経験と何冊かの書籍から考えだした高校英語・大学受験英語学習法の現時点でのまとめである。しかし結局、誰にとってもベストの方法などあるはずもなく、自身が最も意欲的に取り組める方法で学習することが成績向上につながるようにも感じる。勉強したいという意欲はあるが勉強法がわからない、意欲も何もない、という人に参考にしてもらいたい。なお、本稿は上から順に重要なものとなっている。また、学力レベルの比較的高い、参考書で学習する力を持ち落ちる人もいる大学を受験する高校生を対象としている。

●必携書
必ず持っていなければならないもの。
①辞書
なんでもいい。おすすめは電子辞書。どうしても紙にこだわるなら『ジーニアス英和辞典』か『ロングマン英和辞典』が学生でも手が届く。
②『解体英熟語
熟語を調べるための辞書として必携。なお高レベルの大学受験なら暗記。
③文法解説書
表現のための実践ロイヤル英文法』がおすすめ。学校で買うもの(『Forest』とか『ブレイクスルー総合英語』)でも可。

●単語・熟語の暗記
英語学習の最も基本的な問題が、単語・熟語をいかに覚えるかであるが、しかし簡単な問題ではない。
①塾や学校のテストで毎回頑張る
最も基本的な単語・熟語学習であると思われる。ある程度時間をかけ、音読しつつ意味を思い浮かべながら書き、書き、書いて、覚える。

②単語帳を用いる
学校や塾では自身の受験レベルに届かない、やる気が出ないというのであれば、参考書として出ている単語帳を用いて、赤シート等を用いつつ、自身で学習を進めるしかない。最もおすすめなのは『英単語WIZ』『DUO』で、後に述べるが、英文の中で単語を覚えるという形式が効率的である。これ一冊で最難関も狙える。この形式が嫌いなら『システム英単語』あたりが定番か。高レベルを目指すなら『鉄緑会東大英単語熟語 鉄壁』をやっておくと良い。

③長文の中で覚える
私はこの方法が『英単語WIZ』『速読英熟語』『速読英単語1 必修編』『速読英単語2 上級編』や『英文標準問題精講』、後に紹介する長文問題集を用いて長文の学習をしつつ、その長文を繰り返し読む中で、覚えていなかった単語も覚えてしまうというものである。そうした単語の暗記は、一番は暗記するまで長文を読み返すことだが、好みに合えばノートに一覧にしたり、単語カードを作って復習してもいい。なおその際も、単語カードならこれなど大きめのものを用いて、単語といっしょにその語を含む英文を書き写しておくと面倒ではあるがより良い。

●文法・語法
①中学英文法のマスター
まずは、恥ずかしがらずに『塾よりわかる中学英語』『塾で教える高校入試 英語 塾技63』等で中学レベルの英文法をしっかり理解しよう。中学レベルをマスターするだけでも大学入試にある程度対応できるようになる。

②文法・語法問題集を繰り返し解く
中学英語をマスターしたら、『解体英熟語』、文法解説書を参照しつつ、文法・語法問題集と呼ばれるものをひたすら繰り返し解く。学校でよく買う『Vintage』『Next Stage』でも良いのだが、足りなければおすすめは『POWER STAGE 英文法・語法問題』『全解説頻出英文法・語法問題1000』で、これで最難関まで対応できる。これらが難しい場合は『書きこみノート英文法』『関正生の英文法ポラリス[1 標準レベル] 』が易しくまとめられていて良い。

●長文読解
①英文解釈
当然ながら、英語長文は英文の集合体であり、英語長文を読むためには英文を読めなければならない。英文を正確に読む力は受験界隈では「英文解釈」と呼ばれている。特に塾に通わない、学校が進学校でない場合には、独学でもやっておくべきものである。おすすめできる参考書は、桐原書店から出ている英文解釈の技術シリーズ(『入門英文解釈の技術70』『基礎英文解釈の技術100』『英文解釈の技術100』)と英語受験界の重鎮、故・伊藤和夫の本(『ビジュアル英文解釈 (Part1)』『ビジュアル英文解釈 (Part2)』『英文解釈教室』など)、定番の『基礎英文問題精講』『英文標準問題精講』。自分のレベルに合ったものから始めよう。

②問題集
単語・熟語・文法・英文解釈にある程度慣れたら、長文問題集をこなし、受験に備える。まずおすすめできるものは旺文社のシリーズ(『基礎英語長文問題精講』『英語長文問題精講』)や伊藤和夫のもの(『英語総合問題演習 基礎篇』『英語総合問題演習 中級篇』『英語総合問題演習 上級篇』)で、自分のレベルに合ったものを解く。この時、解く前か後に精読(全文の英文解釈)を行い、知らない単語や表現を洗い出し、解釈できない英文を友人や先生に聞くことができれば、完璧である。

③多読
レベルに合わせた多読教材(『速読英熟語』『速読英単語1 必修編』『速読英単語2 上級編』『話題別英単語リンガメタリカ』)等をまずは精読し、その後繰り返し繰り返し速読する。当然ながら、何度も読んで到達する読む速さが受験本番での読む速さの上限となる。大学でがっちり研究するつもりだという人は『テーマ別英単語 ACADEMIC』を読んでみるとおもしろいかもしれない。

●英作文
文法・語法・単語・熟語・読解と英語のあらゆる面に効くので、英作文の出ない大学を受験するにしても、やるに越したことはない。
①自由英作文
基本的には、自由英作文ならば簡易な表現で書いていけばいいのだが、そこでおすすめできるのは『どんどん話すための瞬間英作文トレーニング 』『スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング』である。大人向け(TOEIC向け)の参考書だが、中学レベルの簡易な表現がすぐに出てくるようになる。

②英訳問題
頻出英作文』が大変良く、『英語表現力養成新・英作文ノート』等が練習になる。

●リスニング
これは実はあまり教えられない。というのも私もそれほど得意ではないからだが、ディクテーションが効果的らしい。ディクテーションについてはググって欲しいのだが、それには上に挙げた参考書類がそのまま使える。また、私の理解では、ディクテーションが効果的であるというのは、発音できれば聴けるようになるという理屈で、そうした実感を得たのは『DVD&CDでマスター 英語の発音が正しくなる本』をやったときである。あとはリスニングの問題演習をすればいいのではなかろうか。

A4裏紙の行き場――『ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング』

ゼロ秒思考

ゼロ秒思考

 

●まとめると
あるテーマについて、A4用紙1枚に1分でアイデア(考え)を複数個書き出す訓練を日々重ねることで思考力がアップするというもの。

●こんな人にオススメ
・A4の裏紙が大量に発生する。
・紙にペンで書くことが好き。
・何か新しいことを始めたい。
・効果の見えない習慣を続ける力がある。
・見えないものを信じる力がある。

●こんな人には読むだけムダ
・上記以外の人

●私にとって
・大量に発生するA4裏紙の活用法を求めて。
・何枚か試し、もしかしたら? という感覚はあったが……続けなかったので特に実感はなし。しかしそもそもあるテーマについてのアイデア出し、あるいは考えのまとめとして有用。また著者は英語学習本も出しているが、確かに語学への応用は効きそうである。

可能性・辻褄の合わなさ・暴力――範宙遊泳『その夜と友達』観劇メモ

範宙遊泳『その夜と友達』はいくらかは人間的だった学生時代を経てクソみたいな大人になりつつある日本の私たちにとにかく刺さる。差別発言とかしちゃう人が大統領になって大丈夫なのかなどと言っていた過去(2017年頃)と、6色の造花を配っていたら逮捕される未来。過去は化石のようだが、未来は近い。

舞台上の田町和範(武谷公雄)が言うには、どうも私たちは「未来の友人」らしい。彼は「こちら側」であり客席の私たちにも、「向こう側」の壁に映し出される映像の中の友人・三枝夜(大橋一輝)にも語りかける(範宙遊泳の映像の使い方は相変わらずエグく、よくわからないが感覚的には「不気味の谷」に近いものがあるような気がする)。未来である現在と過去を行き来する彼は第四の壁の此方と彼方を行き来するかのようでもあるが、やはりそこにはカーテンが掛けられる。

彼らは繰り返し辻褄の合わなさを強調するが、辻褄の合っていないのは場を共有していながら第四の壁によって遠く隔てられた彼らと私たち(映像の中の夜のように、私たちが彼らに語りかけることはないし、厳密には彼らは私たちに語りかけてなどいないだろう)でもあるだろう。しかし、辻褄が合っていないにも関わらず、私たちは彼らの物語に胸を痛め、6色の花を配って逮捕されるという架空の未来の事件にリアリティを感じることができる。

辻褄が合わないことは可能性であるようだ。田町は、可能性という言葉をポジティブに使いたい、といったことを言っていた。可能性と同じように、辻褄が合わないということも、ネガティブでもあり得るしポジティブでもあり得る。最後のシーン、夜の部屋で、夜と田町とそこにいるはずのない(結婚して子供がいる)滝沢あん(名児耶ゆり)と「辻褄が合っていない」のに場を共有し、言葉を交わし、酒を飲み交わすことができた、その辻褄の合わなさは間違いなくポジティブなものである。

そして、可能性、辻褄の合わなさは、おそらく暴力にも近い(それらすべてに、ポジティブな形態(LOVE)とネガティブな形態(HATE)があり得る)。適当なことを言えば、範宙遊泳の演劇はポジティブな暴力だろう。

 

追記:YouTubeで記録映像が見られるようになっています

「ナワバリ」の神父と日本人――『哭声/コクソン』

哭声/コクソン (字幕版)

哭声/コクソン (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 素直にサスペンス・ホラー・エンターテイメントとして楽しめば良いのかもしれない。しかし、あえて、つまらない考察を試みたい。ナ・ホンジン監督の映画『哭声/コクソン』についてである。
 「コクソン」は、叫び声を表す「哭声」と「谷城」という地名の読み方を掛けたタイトルなのだろう。舞台は谷城という田舎の村であり、主人公は警察官で、惨殺事件を調査しているうちに自分も巻き込まれていく、といったストーリーである。結果的に、悪霊の取り憑いた人物(『エクソシスト』的な描写といった感じ)が事件を起こしていると主人公たちは判断し、韓国土着(風)の祈祷師と共に、その悪霊を退治しようとするが……結末は後に語ることになるだろう。

1 役立たずの神父

 この映画で悪霊と目される存在は、國村隼が演じており、役としても日本人で、「日本人」と呼ばれるのだが、キリスト教的な、キリスト教的世界観において想像される悪霊のようである。裸(褌一枚)で生肉を直に食らう姿は獣的だし、妖しげな儀式を行ったり、カラスを用いたり、取り憑かれたものはヒステリー状態となって、身体を異常に仰け反らせたりする。さらにはゾンビ化する人物も現れる。映画の冒頭にルカの福音書からの引用もあったが、『哭声/コクソン』は、ある程度の部分、キリスト教的世界観にのっとった映画なのである。知られているように、韓国においては、近世・近代に入り込んだキリスト教が一定の勢力を持っており、この世界観自体に違和感はない。
 映画『エクソシスト』でキリスト教的悪霊祓いを行ったのは二人の神父であった。この映画でも同じことが期待されるが、まず俗人たる主人公たちが頼るのは祈祷師の男である(韓国の宗教や儀式には詳しくないが、彼の悪霊祓いは何か伝統的な形式なのだろうか、エキゾチックな創作なのだろうか。まあ、後者という気がするが……)。そしてその後で神父に相談することになるのだが、あろうことか、神父は、そうした非科学的なものを否定し、病院を勧める。もちろん、悪霊に医学は効きようがない。最も活躍すべき神父は、この映画では、期待に反してまったくの役立たずなのだ。

2 「ナワバリ」に入り込む「日本人」

 入り込んだキリスト教、と先に書いたが、「日本人」もまた、外部から、谷城に入り込んだ存在に違いない。國村隼演じる「日本人」は、山奥の孤立した一軒家に住み、パスポートも持っているのだが、そこで妖しげな儀式を行い、基本的には、主人公たちによって悪霊と目される(彼は観る者にもかなり不気味に映る。おそらくは韓国人/語と日本人/語の近さと通さが違和感となり、不気味となるのだと思うのだが、韓国人が観れば、より不気味なのではないだろうか?)。祈祷師は彼は「死者」なのだと言いもする。主人公たちの会話によれば、彼が現れてから、村では奇妙な事件が続いているらしい。彼こそ悪霊であると考えた主人公たちは、彼を「ナワバリ」から追い出そうと、彼の飼い犬を殺したり、集団で武器を持って襲撃に行く。
 さて、おもしろいのは、「ナワバリ」という言葉である。どうも、韓国語においても、ほぼ「ナワバリ」という音で、日本語の「縄張り」と同じ意味を表しているようだ。「ナワバリ」に入り込んだ「日本人」、「日本人」を「ナワバリ」から追い出すという状況にあって、そもそもその「ナワバリ」という言葉が日本語由来なのである。異物たる日本――日本人/語は、肉と骨を持った「日本人」一人だけでなく、その土台にまで食い込んでいるのだ(洋服、その他諸々、言うまでもあるまい)――どこか暗示的である。

3 祈祷師と謎の女

 入り込んだもの――キリスト教と日本に対する者として、男の祈祷師と、謎の女がいる。祈祷師はどこかエキゾチックな土着性を感じさせる存在である。祈祷師の行う悪霊祓いの儀式も、いかにもアジア的といった感じのするものである。謎の女は、彼女もまた韓国人のようだが、どこか透明な存在である。つまり、奇行をのぞけば、見た目としてはごく普通だ。まじないを行う力があるようだが、その力の行使の仕方もほとんど描かれない。
 おもしろいのは、この二名もまた、対立しているように見えるところだ。謎の女は祈祷師に嘔吐・吐血させる。祈祷師は主人公に「女を信じるな」と言う。同じ朝鮮半島人で、外から入り込んだわけでもなさそうな二人の対立――どこか暗示的である。

4 日本人/悪霊/聖痕

 映画は最終的にはほぼバッドエンドで終わる。キリスト教的悪霊に対して土着的な祈祷・まじないで挑んだ、そのミスマッチ故ではないかという気もするのだが、その最終盤に、主人公の仲間の一人(キリスト教会の助祭)が洞窟へ、悪霊と目されていた「日本人」に会いに行く。そこで男はいかにも悪霊じみた、目が赤く、皮膚が黒く、牙があり、骨張っていて……といった姿に変身するのだが、カメラはその手の聖痕を捉える。聖痕とはもちろんイエス・キリスト磔刑の際についた傷であり、また信者の手に奇跡として現れることがあるという傷だが、その傷は、もちろんキリスト教の立場から言えば善きものだ。そうでない立場から見れば罪人・死刑囚の証とも言えそうだが、ともかく手にそのような傷の現れている彼は、単純な悪霊であるはずがない。後に書くように、この「日本人」は実は物語における善の存在である可能性もある。しかし、正しく悪霊である可能性もある――ここにきても、「日本人」は善悪を判断することの不可能な存在なのだ。
 これまで、暗示的、暗示的と書いてきたが、もちろんこれは、朝鮮半島史の暗示として読み取ることができる、という意味で書いている。朝鮮半島に外部から入り込んだもの、朝鮮半島朝鮮人同士の対立、こうしたモチーフは、現実の朝鮮半島の歴史と今ある社会的状況を連想させる。もちろん、監督なり脚本家なりがそれを狙っている、と言うつもりはない。無意図であるとすれば、韓国で映画を撮るときに、意図せずともそうした外部が映り込むということであるが、どちらでもいい。
 では、「日本人」=聖痕を持つキリスト教的悪霊の、善悪を判断することの不可能性、あるいは善悪の両義性は、どのような歴史を、社会的状況を、暗示していることになるだろうか。

5 解答はない

 しかも、「日本人」=悪霊が悪者だった、ということで、すべてのシーンを納得できるわけではない。例えば、ゾンビ化した人物が主人公たちを襲う前、「日本人」はその人物に対して何か儀式を仕掛けていた描写があり、その人物はその儀式から脱出したように見える。そして彼が主人公たちを襲う際には、「日本人」は物陰からその様子を真剣な表情で見ており、ゾンビは突如苦しみだして死ぬのだが、主人公たちの物理的攻撃にはまったくダメージを受けた様子のない彼を殺したのは、物陰から覗いていた「日本人」である可能性があり、そうだとすれば、それは、主人公たちを助ける行動だ。結局、祈祷師の言うように、呪いをかけていたのは謎の女であり、日本人は善だった……そういう可能性もある。
 そして、他の可能性も、いくらでも考えられる。「日本人」も謎の女も主人公の娘(すばらしい演技力である)の持ち物を持っていた。被害者の写真は、決して確実な証拠ではあるまい。「惑わされるな」と謎の女は言うが、その言葉さえ誘惑の言葉なのであり、主人公も、観る者も、惑うほかないのである。

井の頭公園の/のような映画――瀬田なつき『PARKS パークス』

PARKS パークス

PARKS パークス

  • 発売日: 2017/08/15
  • メディア: Prime Video
 

 橋本愛演じるヒロイン「純」の元へ、永野芽郁演じる準ヒロイン「ハル」がやってきて、かつて純の住んでいた部屋に住んでいたという写真の女性のことを教えてほしいと言う。成り行きでハルは純の部屋に泊まり込むことになり、その女性の孫である「トキオ」(染谷将太)と出会い、やがて女性の遺したオープンリールを手に入れる。その50年前のオープンリールには、井の頭公園で演奏された歌が録音されていたが、データが破損しており、その曲を完成させようと純とトキオが奮闘する――物語のあらすじとしてはこのような映画だ。

 製作背景は知らずに観た。ホームページを見れば色々と書いてあるのだが、そのホームページのタイトルを見ると「井の頭公園の映画『PARKS パークス』」とある。またそのホームページには「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような映画」という表現がある。制作側によれば『PARKS』は、橋本愛永野芽郁(天使)がひたすらかわいいだけの映画ではなく、井の頭公園の/のような映画らしい。なるほど、そう言われると確かに、と思わせるところがこの映画にはあった。

1 井の頭公園の映画

 まず、この映画は「井の頭公園の映画」である。映画について、自分に語る資格があるのかは疑問だが、やはりその始まりは、おそらくは現実の記録と再生を目的としていたのではなかろうか。そして井の頭公園の開園100周年を記念する映画でもある『PARKS』は、井の頭公園を記録し、再生するものであるという意味で、まさしく「井の頭公園の映画」なのだ。主人公格の三人は、井の頭公園、吉祥寺の街の各所各所を走り回り、踊ってまわる。三人は三人でオシャレでかわいいのだが、そのオシャレさも中央線沿い・吉祥寺のイメージにマッチしている。引きで撮られるシーンも多く、通常は背景である空間を妙に意識させられるその映像は、どこか名所案内・PRめいて見えさえするのだが、「井の頭公園の映画」としては、これが真っ当な撮られ方なのだ。もちろん、それぞれの俳優にフォーカスがあたるシーンも少なくない。しかし同様に、井の頭公園・吉祥寺の街もまた、三人と並ぶ主役なのである。

 また、井の頭公園は、ビデオカメラで撮影されたことで、映画『PARKS』として記録され、再生されるわけだが、映画の物語においても、記録される。ラッパーであるトキオのアイデアで、公園の音がサンプリングされるのだ(ラップ文化に詳しくなく、厳密にはサンプリングではないのかもしれないが、音楽に用いようと公園の自然音を録音していた[追記:ハスキーさんいわく「フィールドレコーディングの方が一般的かな」とのこと。どちらにせよよくわかりません!])。本作では、例えば冒頭に、自転車で井の頭公園を走る橋本愛を映しつつ、彼女の声で、物語を春から始めたい、桜のシーン終わらせたいといった物語の外側の台詞があったり、サンプリングのシーンでカメラにマイクを当てたり、映画の物語においてハルの書いている小説と映画の物語が入り混じったりと、撮影/映画内物語/映画内物語内小説の枠を越境するような演出があったが、三人の行ったサンプリングもまた、この映画の公園の記録という側面をメタに表現していた。そういえば、映画には50年前に公園で録音され、データが破損し完全には聴くことができないオープンリールも出てきた。この映画が記録の側面を持つものであると同時に、記録は映画の物語において主題化されてもいた。

2 井の頭公園のような映画

 そして、「井の頭公園のような映画」である。ではこの映画のどこが公園のようであったのか? 「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような」とあるように、この映画自体が、吉祥寺や井の頭公園を愛していたり、バウスシアターを愛していたりした人々の縁になるという解釈もできるだろうが、逆に、映画における井の頭公園のあり方が、映画じみているのだと、そういう見方もできる。映画の物語において、50年前の恋愛が描かれる。それはハルの夢?(想像? 小説?)の中の出来事として演じられ映されるのだが、その恋愛の中心となる男女は、物語の開始時点で既に死んでいる。さらには、もう一人の登場人物も、物語の終盤で死ぬ。その死を含むシークエンスはこの映画の最もネガティブな時間であり、またそのネガティブさに反して復調は早く、幸福感あふれるこの映画になぜこのネガティブさが必要だったのか、なぜ容易に復調されたのか、いまいち考えをまとめられていないのだが、それはともかく、映画においては、こうして死んでいくもの、喪われていくもの、それを再生させる縁として、井の頭公園が機能している。100年間存在する井の頭公園には、100年分が焼き付けられているのだ。そしてそれは、ハルのように、そこを訪れ、それを臨む者によって、再生される(夢、想像、小説、何であってもいい)のである。

 さらには、その再生は、記録的な、単なる過去の復元ではない。50年前の当人たちは死んでいる。ハルによって再生された50年前は、完璧な過去の復元であるはずがないし、完璧どころか、まったく違っている可能性さえあるのだ。不完全なオープンリールの音源を完成させようという純やトキオの奮闘にも同じことが言える。初め、彼らの「完成」させた曲は、ハルによって否定される。「ポップでダンサブル」を目指してエレキギターやラップやベースやドラムを加えたそれが、50年前、恋人に向けてアコースティックギター一本で弾き語られた曲の完成であるとは、確かに考えがたい。しかし、ネガティブなシークエンスを越えて、最後の最後に歌われるその歌と映像には、幸福感が蘇っている。そして、振り向いたハルは微笑む。最後に歌われるその歌は、単純に考えれば、50年前の歌の完成ではない。しかし、ハルによって再生された50年前の恋愛の物語と同程度には、再生である。そして、思えば再生という言葉は元来、生まれ「かわる」ことを意味している。物語において、公園は確かに再生させた。映画のように――井の頭公園の映画、公園の記録などと先に書いたが、映画もまた、撮影時の完全な井の頭公園を復元したりはしない。それは再生されるだけだ。