東北から病室まで

 三月、ふと思い立ち東北へ行った。初日は新幹線で一関まで行き、電車やらBRTやらを乗り継いで、陸前高田の「奇跡の一本松」を観た。低い土地はおおかたすべて流されてしまったか破壊され片付けられてしまったのだろう、陸前高田の役所のあたりから下っていくと、一面砂漠のような土木工事現場であり、風と大型トラックが土埃を舞い上げていた。大地から造り直しているのだ。一本松はその先にあった。平日だからかいつもなのかは知らないが閑散としており僕の他は家族の一組だけであった。家族の祖父はハーモニカで「花は咲く」を吹き、母と息子は一本松の前で写真を撮り、なにやら語らっていた。木、ユースホステルだったという建築や中学校の遺構。何も感じないわけではない。たとえば、人間の矮小さ。使い古された比喩だが、やはり人間は、寄生虫じみている。皮膚にはりつく寄生虫、気づかれぬよう、少しずつ身体を蝕むが、一払いで潰されてしまう――そのように生きるしかない、もちろん。ぼろぼろの観光客ノートが置いてあった。何か興味深い書き込みがあるかもと思いめくったが本当につまらないものだった。

 その日は石巻に泊まった。石巻までもまた遠かった。石巻である必要もなかった。なぜ石巻に泊まったのだろう? 夜の石巻は驚くほど寒かったが、同じ電車に乗り合わせて同じく石巻で降りた女子高生のスカートもまた驚くほど短かった。東京ではもうあのようなミニスカートは見ない。スカートの短さとスクールカーストは比例するというような俗説が頭をよぎった。俗説だろうが、僕の中学生だった頃は、それはリアルだった。本当にもうほとんど常に下に穿いているものの見えている先輩がいて、友人と笑っていたことを思い出した。

 翌朝やはり海の方まで行った。陸前高田よりも補修は進んでいるようであった。松島を観にも行ったが特に語ることはない。

 仙台でSNSで知り合った方と会った。同世代の、趣味の良い男性。コーヒーショップに連れていってくれた。演劇の話、音楽の話、研究の話(いわゆる文系理系トーク)。

 翌日、いわきまでバスで移動した。子供の声ばかり聞こえた。子供しかしゃべっていなかった。後方では母親とおそらく言葉だけでままごとをしたり、父親を起こそうとしたりする女の子の声。前方では姉が妹の髪を結おうとして三〇分はいじっていた。退屈だったのだろう。やがて妹はスマートフォンでゲームを始め、おそらく難しいところをやってもらおうと姉に渡そうとしたが、突き返されていた。

 いわきでは『タイムライン』というミュージカルを観た。その感想は別に書いたので省くが、ともかく中高生の歌い踊る舞台である。子供、中高生――そういえば昨日仙台の喫茶店でおもしろい話を盗み聞きした。話していたのはどうも高校を卒業したばかりの女子三名であったが、そのうちの一人によれば、通っていた学校に、鳴らしてはいけない、鳴らしたら鳴らした者のみならず聞いた者まで志望校に落ちる、そういう鐘か鈴かがあったらしい。そしていつか卒業生たちがおおいに鳴らしているのをその女子は聞いたことがあり、ならばと思い自分も鳴らしたら先生にひどく叱られたという。どこかに聞き間違いがあるかもしれない。いったいどういう鐘か鈴なのか、どういう場所にあるのか、まったくわからない。しかしこの話の理不尽さには覚えがある。

 子供、中高生――僕にもそう呼ばれる時期があったが、自身のことを思い出してもやはり、あれは、理不尽な季節である。理由もわからず、縛られ、傷つけられる、あるいは傷つけなければならない。おそらく誰にとってもあれはそういう季節だ。

 夜、夕食と書店を求め街を歩いた。もちろん旅先だからだろうが、いわきは、地方都市らしい情緒ある好い街だと感じた。

 朝、まったく食欲がなかった。朝食にと買っておいたパンはすべて手をつけずに置いてきてしまった。

 特急はやがて東京に入り、雨が降っていたが、傘を差し、黒い服を着た一団が墓参りをしているのを車窓に見た。少し遅いが彼岸参りか、あるいは黒い服を着ていたし誰かの死んだばかりであったのかもしれない。墓参りを集団は少ししてからもまた見た。東京、数千万の人間を抱えるこの都市で、死に、骨となって累積されていく膨大な人々。昼を過ぎても食欲はなく、お菓子を一つ食べただけであった。

 翌日から熱とひどい咳で寝込んだ。熱は三日続いた。仕事も休んだ。その翌日と翌々日は仕事に出たが、症状はなくても身体はだるく、その夜、腹部の激痛で病院へ行き、そのまま入院することになった。