福島の今、過去から未来へ――チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』藤田貴大

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チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』
演出:藤田貴大、音楽:大友良英、出演:ふくしまの中学生・高校生

1 福島の今

 『タイムライン』において、「なんともない日々の わたしたちのタイムライン」から始まる、フライヤーにも掲載されている台詞が、繰り返し発せられる(それは音楽や舞台上を動き回り歌う少女たちの声に掻き消され聞き取ることが困難なときもあるが、当日も(なぜか二枚)配布されるフライヤーによって観る者に刻み込まれたこの台詞は、「聞こえる」)。そして主に演じられるのは、「おはよう」から始まり、学校で、時間割に沿って、見慣れないルールに従っているらしいゲーム(そのルールは観ているだけで理解できるものもあれば、理解できなかったものもあった。コミュニケーションと運動量を伴う、何度か見たことのある劇団が開演前や稽古前に行う「アップ」にも似ているように思うのだが、そういったゲームである)を行い、そして「おやすみ」で終わる、繰り返される日常だ。明日も学校、と少女たちは言う。昨日も今日も明日も、「おはよう」から始まり、学校に行き、「おやすみ」で終わる一日なのだ。そして、演じられるその日は、「あの日」と呼ばれている。
 福島県いわき市での公演。「あの日」「3月」「海が見える」――そうした台詞は私たちに、ある特定の日付を思い出させる。あの日、地震とそれに続く津波によって、いわき市でも多くの犠牲者が出た。その後の原子力発電所での事故も、市民に多大な影響を与えた。『タイムライン』は私にあの日を思い出させた。
 「あの日」「3月」「海が見える」といった台詞からあの日を思い出した私は、そこで、地震津波を半ば「期待」していたと言えるだろう。あの日、そうした日常が、崩れ去ったことを知っているからである。このミュージカルにおいてあの日がどのように描かれるのか、僕は半ば「期待」していた。
 しかし、地震は起こらない。
 ‪劇中の「あの日」とは、素直に観れば、私たちの共有するある特定の日付、あの日、ではないようである。その日、地震は起こらない。少女たちは何事もなく学校の時間割を消化し、帰り、明日も学校、などと呟き、眠る。「冬型の気圧配置、強めの寒気‬」と歌い、ミュージカルは終わる。
 しかし考えてみれば、なぜ僕は少女たちの「あの日」という言葉から、あの日を思い出したのだろう? 福島県の中高生の少女たち(楽器隊には男子もいて、なかなかの存在感であったが)は、舞台上で中学生を演じていた。演者の年齢と役の年齢が重なっていたわけである。であれば、彼女たちは現在(そういえば「福島の今をどのように演じるか」というようなことを開演前に福島県副知事が挨拶の中で言っていた)の範囲に含まれる「あの日」を演じていると考えることができそうだ。あの日から6年(初演は去年であり、5年後なのだが)、あの日には小学生だった子供たちが中高生になっている、そういう現在である。
 非日常、劇中の台詞の言葉を用いれば「タイムライン」から抜け出す時間も描かれる。夜中、「おやすみ」の後で、少女たち三人が、川に沿って歩き、海を見に行くのだ(見たいときがある、というようなことを少女の一人が言うが、そういう動機でである)。海を見ながら、「明日も学校か」と少女の一人が呟く。6年後の「3月」に、彼女たちは海を見に行った。そのように見ると、その気持ちも想像することができる。

2 過去から未来へ

‪ 藤田貴大は2015年頃から未来を描こうとしているようだ(関連記事)。『タイムライン』も、未来を描こうという試みのようだ。
 『タイムライン』には、今は過去にとっての未来、未来にとっての過去、というような台詞があった。現在、「なんともない日々」の「繰り返し」である現在が、過去にとっての未来であり、未来にとっては過去であるという、どこかで見聞きしたことのあるような言葉ではあるものの、象徴的な台詞だ。
 この台詞のように、「繰り返し」が、‬過去と未来を繋ぐものとなっているようである。藤田貴大/マームとジプシーの代名詞ともなっているいわゆる「リフレイン」は、あくまで過去の再来であったと言えるだろう。藤田貴大が未来を描くことに困難を感じていたのは、彼の核心的手法である「リフレイン」が過去にフォーカスを当てるものであったからだと思われる。
 では、今作ではどうだったか? 確かに繰り返される台詞、「リフレイン」的演出はあった。しかし、描かれたのは「おはよう」から始まり「おやすみ」で終わるただ1日であり、その1日自体は「リフレイン」されない。しかしその1日は、少女たちの台詞によれば、繰り返される――「繰り返し」としての日常は、これまでも繰り返されてきたという意味で、過去の再来であり、これからも繰り返されるという意味では確かに、未来でもある。『タイムライン』は、「なんともない日々」の「繰り返し」という言葉によって、未来を描いている。
 日常、「なんともない日々」の「繰り返し」は、突如断ち切られることを、私たちは知っている。しかしそれでも、私たちが、6年後の今、6年後の今なりの「繰り返し」を生きているのも確かであり(もちろん未だ非日常を生きている者も大勢いる。それを忘れてはならない)、「繰り返し」を生きるしかない、夜中に海を見に行くといったような小さな抜け出し方しかできないというのもまた、確かである。未来とは、実は「繰り返し」に過ぎない、のかもしれない。逆に言えば、「繰り返し」こそが、そもそも厳密に「繰り返し」であるはずもなく(関連記事)、未来そのものなのだ。