快快「6畳間ソーキュート社会」

快快「6畳間ソーキュート社会」@トーキョーワンダーサイト渋谷

 テクノロジーの時代における、演劇という芸術の、そして快快の、プリミティブな魅力。生活を肯定する、優しさに溢れた劇団、演劇。

 会場の空間に入ると、中心に畳が六畳敷いてあり、その上にはベッドと一人用の机が置いてあって、部屋のようになっている。そしてそのまわりを、高くされた客席が取り囲んでいる。客席からは舞台を見下ろす形になっています。快快のメンバー?の方が飴を配っていたり、知り合いと談笑したりとフレンドリーな雰囲気。ベッドには毛布や枕がないのですが、そこにiPhoneの画面を映してゲームをする、なんてこともしていました。
 さて、『6畳間ソーキュート社会』ですが、ストーリーらしきストーリーのほとんどない、ポストドラマ演劇に分類できる芝居でした。舞台上には主に二人の男女がいて、主に恋人同士の二人として振舞います。しかし冒頭には、何者かわからないテクノロジーオタクでロリコンだという男が登場し、iPhoneでいろんなことをしたり、説明したり、この説明がやけに片言で即興なのかなという感じさえしたのですがわかりません。冒頭のiPhone云々は、主な登場人物のうちの男の方の、「iPhoneが片手にくっついている」といった意味の台詞に繋がるものです。家に忘れて外出してしまうと、連絡もできない、写真も取れない、地図も見れない……また二人の男女は恋人同士なのですが、二人でいる時でも片手にはiPhoneを持っていて、仕事の電話に出たりする。携帯電話が身体の一部になって久しいわけですが、改めてこうして芝居にされると少し恐ろしくもなります。いや、恐れるべきものではないのかもしれませんね。劇中にも、そのことを批判するような雰囲気はない。一昔前なら「自然に帰ろう」といった方向に進みがちなテーマですが、そうはなりません。「未来が過去になった時代」という台詞が劇中にありますが、想像してたような未来の来なかった、未来が予測可能な「年表」(未来年表)にされてしまうような時代に、価値あるものは何か。劇中ではそれが問われます。そしてSiriは答えます。「人間の魅力はますますプリミティブになっていく」と。
 6畳間で、男と女はプリミティブな恋愛を繰り広げます。男も女も自分の部屋の本棚には自己啓発書しかなく、女は「青山」や「アサイボウル」などの記号によって自己規定をする。男は最新型のブーブークッションを仕掛け、いくらテクノロジーが進歩してもこういうのは残る、といったことを語り、女はどうでも良さそうに聞いている。やがて女は妊娠し、子どものいる生活を想像する。男は彼女の妊娠したという報告に冷静に対応できず、くだらない冗談を言い続ける。そんな素朴な、原始的な、根源的なドラマは、しかしやはり胸を打つ。それから二人は「未来年表」に沿って振り回され、宇宙エレベーターを演じたり、太陽系脱出を演じたりするのですが、最後には二人で1畳の畳の上で寄り添う。
 テクノロジーは進歩し続けるのだが、同時にその限界を露わにし続けている。そんな気がしました。テクノロジーの進歩は二人を振り回したが、しかしそれは結局は6畳間で起こることであり、そして部屋の中のベッドや机や畳の五枚が持っていかれても(途中で外に運ばれていく)、二人は寄り添っている。そして朝が来れば互いに起こしあい、鶏が鳴く……そうした、「プリミティブ」な部分は、変わらずに残る。そしてそれは、テクノロジーのどれだけ進化しても侵せない領域である、ということがわかってきてしまっている時代なわけです。
 途中、男女二人が「わたし」「あなた」「わたしたち」と、2012年フェスティバルトーキョー、地点によるイェリネクの戯曲『光のない。』の公演を思い出させる場面が。『光のない。』との関連で考えると、確かにテクノロジーの限界とは3.11、原発事故とも接続し得るし、実際にiPhoneで線量を測るシーンが出てくる。それでも二人がその場所で「赤ちゃんできたの」なんて素朴な恋愛劇を演じるわけですが。
 テクノロジーに対するプリミティブなもの、iPhone的なものに対するブーブークッション的なものを押し出す芝居でありながら、決して「自然に帰ろう」ではない。テクノロジーがどれだけ進歩しても、侵せない領域としてのブーブークッション。そこにどうしようもなく魅力を感じるし、太陽系を脱出してしまっても、そうしたものはむしろより強く魅力を持ちうるだろうと思いつつ、ずっと笑っていられる演劇でした。そしてそこが一番ステキだなぁと感じました。