『若山牧水歌集』

若山牧水歌集 (岩波文庫)

若山牧水歌集 (岩波文庫)

  • 発売日: 2004/12/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

“人生は旅である。我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮の奥に往つてしまふ。”

上は歌人若山牧水が歌集『獨り歌へる』に自序として記したもの。

若山牧水といえば明治後期~昭和前期、自然主義短歌といわれるジャンルの歌を詠んだ歌人。常に旅にあり、酒を愛し、激しい恋や森林伐採抗議運動への参加と実に豪快そうな人物であるが、その彼の短歌たちは静寂でもの哀しい。

彼の人生そのものと言うべき「旅」はそもそも、土地に根付くことなく漂泊し、流れてゆくことだ。今日旅というとハワイであったり欧州であったりを思い浮かべるものだが、常に旅にあるというのは意味が違ってくる。それは孤独であり、不安であり、そして死の気配のようなものを常に身にまとうようなものなのではないだろうか。

何を言っているのかわからなくなってきたので、この歌集から少しばかり短歌を紹介したいと思う。

“遠くよりさやさや雨のあゆみ来て過ぎゆく夜半を寝ざめてありけり”

歌集『獨り歌へる』より、薄ら寒い孤独な夜を感じさせる歌。さやさやという擬音はあまり見かけないものですが見事としか言えません。夜の和室の天井や布団の香りが匂ってくるように感じる。漢字から津島佑子の『夜の光に追われて』で知った『夜半の寝覚』という平安記の小説をふと思いだしたためか、余計にやるせない気持ちになる。

“白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ”

歌集『海の聲』より、若山牧水の歌の中でも有名な一首。空の「青」と海の「あを」という二つの巨大なキャンバスにこぼれた小さな白い鳥。視界全体を覆う巨大な「あお」と小さな白鳥の対比は実にすばらしく、また美しい情景である。そして白鳥を牧水本人として読んで解釈してみると、深い。

海の白鳥とはやはり鴎であろう。中学時代にリチャード・バックの『かもめのジョナサン』をだんだん非現実的になっていく展開にちょっと飽き飽きしながら読んでいたが、そのジョナサンも孤独の存在であったことを思いだした。リチャード・バックが『かもめのジョナサン』を書いた背景は知らないが、鴎に孤独を感じるあたり、牧水と何か共通項があるかもしれないし無いかもしれない。ごめんなさいわかりません。

“幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく”

『海の聲』より、これまた有名な、そして若山牧水そのものを表しているかのような歌。彼が孤独を感じていたことの証明でありそして、彼が旅を愛し旅を続けた理由を垣間見ることができる。
哀しさ、寂しさを感じる歌の多い若山牧水の歌の中にあって、この歌から僕は希望を感じる。寂しさのない土地はどれだけいけばあるんだい? 今日も元気に歩くぞ! なんてことを外国ドラマの吹き替え風に言うイメージ。

若山牧水の歌を読み、そして彼の人生を知ると、なんとも彼をかわいそうに感じてしまう。寂しさを常に抱えていたのではないか、しかり、酒でごまかすしかなかったのではないか、と。そういった一面は確かにあったであろうが、“幾山河~”の歌を読み、ちょっと嬉しくなった。もちろん牧水が何を思ってどのような気持ちでこの歌を読んだのか、知ることはできない。しかし僕が思うに、その時の彼はけっこう楽しい気持ちだったんだろうな、と。勝手な想像ではあるが、そう思っている。

短歌集というものは開くたびに新しい感想を抱く。以前読んだ時にはほとんど何も感じなかったような歌に涙腺を刺激されたり、気持ちを高められたり、嬉しくなったり寂しくなったり。この時代の人物の短歌となるとインターネットなどのメディアで簡単に見れてしまうが、文庫本なり単行本なり、いつでも取り出して読めるようにしておくべきだろうと思う。心に染み入る歌は日によって変わる。人生という「旅」のお供に、あるいは文字通りの旅行のお供に、短歌集を推薦したい。