犬と串『左の頬』

犬と串case.10『左の頬』 作・演出:モラル
2013年4月10日 (水)~21日(日) シアター風姿花伝

 犬と串、今回観に行ったのは、何かの雑誌(何の雑誌だっけ)で彼らの前回公演『さわやかファシズム』について軽く触れている文章を読んで、おもしろそうなことやってるっぽいなと思ったためなのですが、まあおもしろかった。こういう笑いを取りに行く感じの演劇って、少なくとも今まで見てきたものだとやはり九十分とか二時間とかの上演時間の中で何度かはスベってしまい、まあお笑いじゃないしね……と苦笑いを浮かべたりするのですが、最終盤なんかには少々グダグダ感もあったものの『左の頬』は見事なものでした。開演前から笑わせて来ますからね。パロディもけっこうあって、分かる人はもっと楽しめるのでは。ぜひ観に行って欲しい。

■表現について

 鈴木アメリと元バナナ学園純情乙女組団長・二階堂瞳子演じる二人の少女が主人公。僕は個人的に鈴木アメリちゃんけっこう好きで(個人的!)、キュートで良かったなぁと思います。全体的にコメディでギャグやパロディのレベルも高く、開演前に「赤信号、みんなで渡ればこわくない」なんて言ってたわりには、女優の(女性客のではなくね)おっぱいを揉むくらいで、けっこう安全に楽しめる舞台だったんじゃないかなあと感じました。

4/17日追記
アニメっぽさについて。漫画・アニメ的だな、と思いました。例えば主に映像作品においてアバンタイトルと呼ばれるような短い芝居の後に、アニメにおけるオープニングのように、J-POPが流れ役者たちが踊る。また、文字を使った心情表現。役者は表情だけの演技を行い、心情の書かれたフリップボード(画用紙?)が次々と現れる。アニメにおいてはキャラクターは口を動かさず声だけ出すことで心の中の言葉を表現するように思いますが、この劇におけるこうした心情表現はむしろ少女漫画に多く見られるモノローグによるものに寄り添っている。
こういう表現の仕方というのは、例えばアングラ期になんかは絶対に無かったはずですが、最近の演劇ではよく見られる手法なのだろうか? あまり多くの上演を見ていないので判断できないが、どうも演劇においては最新の表現技術なんじゃないかという気がします(ほんとか?)。アニメのオープニングのような表現(タイトルが映し出され、何らかの音楽が流れる)は最近の演劇を見る限りだとよくありますよね。この「アニメ的」ももしかしたら遡れるものなのかもしれませんが、映像なんかかじったこともないので全然わからない。
とりあえず、気になったのでメモして置きます。

■内容について 

 ここからネタバレになりますが、だらだらと内容について。

 物語自体はシンプル?なもので、双子の女の子(ふたりとも、幸と書いて、サチとユキ)(この双子設定は非常に重大なネタバレです)の対立を中心としたもの。ユキには転入してきたサチの良いことしてるアピールがとにかく気に食わない、というとことから話はスタートします。サチもユキもそれぞれに冷たい家庭の中で育ったのですが、サチはそこでみんなに愛されるために良いことをしていることをアピールする方向に進み、ユキは良いことをしても褒めてもらえないことからひねくれる。この態度の違いから対立が生まれるわけです。
 タイトルの「左の頬」は二人の少女がそれぞれ毎日見るという夢の中でイエムの言う「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」という台詞から取られています。実際のところ、この同じ命令が二人を違う方向に進ませ対立させるわけで、本当に悪いのは家庭環境よりもこの父(実は彼は双子の父親なのです)からの命令ですよね。彼らは実は宇宙人(!)ということも明かされるわけですが、地球人にはこうも直接的に与えられはしないこの命令が二人を苦しめるのです。
 地球人には、と言いましたが、「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」はもちろん元は聖書にある「しかし、わたしはあなた方に言う。悪人に手向かうな、もしだれかがあなたの右の頬をうつなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」からであり、「他人を裁くな」といった意味だと思うのですが、『左の頬』においては、ガンジーのような非暴力主義の言葉として捉えているようです。敬虔なクリスチャンはおそらくそういう解釈をしないでしょうが、している方がいるとしたら、その人にとっては宇宙人たちと同様に重大な命令となっているのかもしれません。双子以外の宇宙人たちは、この命令に忠実です。彼らは左の頬を差し出すような行為を「意表をつくこと」と言い、使命である、と言います。この命令を完璧に内面化させているわけです。「意表をつかないとおもしろくない」「なるほどと思われたくない」と彼ら宇宙人は語ります。
 そして最終的に対立していた双子は互いの生い立ちを知り、和解を選ぶ。こう書くと、完全にハッピーエンドなのですが、しかしこの舞台の暗転前の最後の台詞は「意味ないじゃん」で、僕の目と記憶(記憶に頼らなければ語れないのが舞台芸術のめんどくささでありおもしろさですね)が正しければ、俳優たちは別にこの台詞をさわやかに言うわけではありません。この「意味ないじゃん」は「なるほど」の対義語として位置づけられているはずで、この脚本において「なるほど」が悪魔のワードとなっている以上、「意味ない」はプラスの意味を持っていると思われるのですが、なぜ彼らは最後、ほんとに「意味ないじゃん」といった顔でこの台詞を言うのか?
 もちろん本当のところはわからないのですが、そもそもこの「左の頬」命令ってそんなに尊いものなのか? という問題がある気がします。劇の中でまともに描かれるのは皆宇宙人なわけで、地球人には、この命令はありません。また、宇宙人の中でも地球で育ったためか地球人らしい双子は、この命令に苦しめられてもいます。この命令は我々地球人にとっては宇宙人の価値観の押し付けであるわけです。しかしまあ、この命令を世間が愛と呼ぶのなら、傷つきながらも従う価値があるのかもしれませんね(投げやり)。
 あと、この「意味無いじゃん」は芸術やパフォーマンス全般について言うことができると思います。というのは極論ですが、「左の頬」のチラシには「理屈を超えたことができる、それが愛の戦士。理屈を超えたことをやらかす、それが犬と串。」と書いてあります。「意味ない」はこの「理屈を超えた」に重なるものだと思うのですが、この理屈を越えるものが愛であり、芸術ですよね。そういう意味で、芸術も愛も「意味ない」ものです。それでもやる。芸術を愛を実践する、という犬と串の、作・演出モラル氏の意志を感じないでもありません。