「戦争」がこれから始まる——本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

 本谷有希子は元々、舞台の人間であった。上京してENBUゼミナール演劇科に入学し、師はあの俳優・劇作家、松尾スズキである。しかし『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は、「劇作家が試しに小説書いてみた」なんてものではない。

 まず、文章がけっこう上手い。「自分と二人の間を真横に走る畳縁の濃紺を曇った表情で見下ろしていた。」などと少々露骨すぎる表現をしてしまうきらいも微妙にあるにはあって、それは少し残念だが、現代小説らしい読み進め易いテンポ感のある文章だ。何より視点を切り替えの上手さが目立つ。例えば、以下の場面である。

 大きく手を顔の前で振る宍道に形だけ頷きながら、清深は暖簾を潜った。兄から振りまかれる、ムッとするほどの酒の匂いで胸が焼き付きそうになる。
(中略)
 強く答え、清深は頷いた。「もう、絶対あんなことはしない」
 その目の端に薄く涙が浮かんでいることを知った宍道が口を開こうとするより先に、清深はくるりと背中を向け二階へと去っていった。
「…………」
 小さくなっていく階段の軋む音をぼんやりと聞いた宍道は、そのまま台所に入り、瓶ビールとグラスと栓抜きを用意した。
(『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ講談社文庫 pp.135-136)

 この小説は三人称で書かれている。そして、上の部分、わかりにくい引用だが(申し訳ない)、前半部では清深の感覚を中心に、後半部では兄・宍道の感覚を中心に書かれていることがわかる。なぜこの切替に、読者は(おそらく)混乱することなくすんなりと読み進められるのか? それは、読者の位置が固定されているからである。
 と言うとわかりにくいであろうが、これを舞台だと考えるとわかりやすい。我々読者=観客であり、演劇には通常語り手は存在しないが、我々は役者の演技を見ることで、例えば「大きく手を顔の前で振る宍道に形だけ頷きながら、清深は暖簾を潜った。兄から振りまかれる、ムッとするほどの酒の匂いで胸が焼き付きそうになる。」といったことを読み取る。そういう意味では、観客=語り手と言ってもいいだろう。そして舞台の上のセットは、真ん中に暖簾が下がり、上手側に台所、下手側に廊下と階段に見立てられた出入り口。廊下側からやってくるのが宍道であり、はじめ台所にいて、階段から出て行くのが清深である。そう、この場面において、語り手は舞台の観客の位置にいるのだ。
 この手法が本谷有希子の編み出したものである、とは断言できない(読書量が少ないために先例を知らない……誰か知ってたら教えてください)。しかし、本谷有希子の演劇という出自との関連を感じないわけにはいかない。演劇においては当たり前の手法を、小説に転用してみせているようなのである。

 演劇との関連で言うなら、「演出」もまたおもしろい。例えば、 雨女・待子がエジプトから帰ってくる場面。彼女の登場の伏線として台風がやってくるのである。ここまであからさまな演出は、舞台上であっても「笑い」の対象となるだろう。

 演劇における「笑い」は基本的にポジティブなものである。例えばシリアスな展開にそぐわない行為に対する「笑い」なども、大抵の場合、ポジティブに受け取られる。僕の見てきた限り、演劇に慣れている観客などは、少しでもここは笑うとこだと感じると、笑う。それが伝統的な演劇の楽しみ方となっているようなのだ。
 本作の内容は極めて切実で、解説の高橋源一郎が述べるように、「絶望」とさえ言っていいものである。しかし、笑える。気持よく読み終えられる。この読後感は、どこか小劇場演劇を見終わった時のものにも似ている気がする。小劇場演劇においては「笑い」はほぼ必須のものである。また、ギャグを全面に押し出した劇であっても、物語のテーマは切実で重い、といったことも、小劇場演劇においてはよくある。この、どこかに「笑い」を入れるという演劇的な感覚もまた、この小説からは感じ取ることができるだろう。

 あと、内容について思ったことを。
 なかなか深刻な内容である。セックスはあるし、人は三人死ぬ。一人は過労死、二人はダンプにはねられバラバラになっての死だ。物語は葬式から始まり、ラストシーンでは呪いの人形に釘を刺す(笑うとこかもしれない)。解説を高橋源一郎が書いているのであるが、彼はこの小説に「小説の世界」が「久しく忘れていた」「絶望感」を感じたという。そして、第二次大戦後の「実存主義的」文学になぞらえ、戦後の、「故郷」を焦土にしてしまった「見えない戦争」(資本主義とか終わりなき日常とかだろうか? ちゃんと書いてくれればいいのに(汗))後の「実存主義的」小説なのだ、と言う。

この小説の登場人物たちは、焼き尽くされた土地の上に、絶望して立ち尽くす。だが、それは終わりではない。なにもかも一からやり直すために、彼らは、まず「絶望」することを選んだのである。
(pp.214-215)

 高橋源一郎の言う「絶望」は、確かに描かれているだろう。ではこの「絶望」とはどのようなものなのか、頭が良すぎて高橋源一郎はよく説明してくれないので、僕なりに考えてみる。
 僕の考えでは、この「絶望」の原因を探るには、舞台となっている「故郷」と共に「東京」のことも考えてみなければいけない。
 メインヒロインと言っていいだろう、澄伽の願いは「唯一無二になること」であった。しかし、彼女は、東京に出る前には、唯一無二の存在だったのではないか? 皮肉にも、「東京」では舞台女優をするもまったく注目されなかった澄伽は、「故郷」ではとても注目される(p.37「澄伽はこの十数軒ほどの店から形成される寂れた商店街に至るまでの間に、出会う村人全員からぶしつけな視線をさんざ浴び続けてきたのだった。」)。
 ではなぜ、「故郷」では唯一無二の存在たりえた澄伽は東京へ出ることを強く望まなければならなかったのか。もちろん、一度噂が立つと生きにくい村社会から出て行かなきゃいけないという必要性は最終的には生じているが、村社会のそうした性質は「見えない戦争」以前からあるはずだし、彼女はその噂の広まる前から「唯一無二になる」ために「東京」へ行きたがっている。
 おそらく、澄伽をここまで「東京」へと駆り立てたのは、「東京」そのものなのではないか?
 「東京」という圧倒的な〈中央〉は、「故郷」に〈周辺〉であることを強制する。この構図に、澄伽はハマったのだ。〈中央〉が、彼女に〈周辺〉、唯一無二ではない、という感覚を与えたのである。そして、「東京」には〈中央〉は存在しない。ポストモダン下の「東京」は実際のところ極めて匿名的な都市であり、特に地方から来る人間にとっては、虚構的な都市でもある。

ラストのシーンで澄伽の呪うのは「自分以外のすべて」である。

 全身から流れる汗を撒き散らし、澄伽は自分以外のすべてを呪った。
 体力と精神力を極限まで使い切り、自分以外のすべての消滅を心から願った。
(p.206)

 あれ? である。高橋源一郎の比喩にいちいちツッコむのもどうかと思うが、澄伽を取り囲んでいるもの、澄伽の立っている場所は「焦土」ではない。むしろ、極めて強固に組み上げられたされた「中央/周辺」の構造である。「なにもかも一からやり直すために」、彼女は、「自分以外のすべての消滅」を祈るのだから。
 高橋源一郎が本作について語る「見えない戦争」というものは、確かにあったのかもしれない。しかし、それに「戦争」という名前を与えるのはどうだろう? と僕は思う。むしろそれは「見えない構築」として存在した。そして、すべてを消滅させるための「戦争」がこれから始まるのだ。