ミノタウロスなき〈迷Q〉——Q『迷迷Q』

Q『迷迷Q』@こまばアゴラ劇場、4/25観劇。

 

 Qの前作『いのちのちQⅡ』を私は、〈O〉の演劇として観た(「Qは「形」を問う――Q『いのちのちQⅡ』」)。「ニンゲンの世の中」すなわち地球と、それに依存した暦、時計、社会制度、そして再生産の「形」、〈O〉。『迷迷Q』もまた、〈O〉から始められた。園子は、公“園‐円”で孕まれた故に園子という名だ(そこには回転運動(母を演じる吉田聡子が舞台上で回転する)も伴っている)。しかし本作は前作のように〈O〉の形によって統合されることなく、〈迷Q〉に入り込んでいくことになる。いや、『いのちのちQⅡ』にも現れていたテーマ、イメージを突き詰めていけば、その先には必然的に〈迷Q〉が浮かび上がる、とでも言うべきだろうか。

 本作の物語を説明するのもまた難しいのだが、本稿に関わる部分を中心に、試みよう。
 まず登場するのは吉田聡子の演じる母であり、彼女の男との散歩(男は舞台上にはいないのだが、散歩は彼の手に強引に引っ張られているかのように演じられる)から物語は始まる。彼女はやがて公園に辿り着き、そこで黒人と日本人の混血児を見つけ、彼女の姿からバッファローを連想する。その公園のトイレで彼女は男と交わり、園子を産むことになる(なお、園子には10人の兄弟がいた、とされる)。それから園子の子供時代の話になり、彼女と飯塚ゆかり演じるのんちゃん、吉岡沙良演じるのんちゃんの飼いイヌ・フランシーちゃんとの交流が演じられる。そこではのんちゃんの死んだふりと、「死ぬよ」という言葉、及び笑いが、過剰に反復され、継続される。また、のんちゃんはオオカミに育てられた、と自称する(また、園子が服や製品のブランド(固有名詞)に囚われているのもポストモダン的であり重要かもしれないが、本稿では触れることができない)。
 その後、フランシーちゃんは母によって盗まれ、園子(とその兄弟)の飼い犬(ハワイと呼ばれる)となり、のんちゃんは園子の飼い犬がフランシーちゃんであるような気を持ちつつも、彼女をハワイであると認定し、そして引っ越していくことになる。しかし園子の家族はハワイを大切にせず、彼女はダニ・ノミだらけになり、やがて死に、その肉は唐揚げにされ、母は口にするも、園子は吐き出す。
 その後、園子は山でケンタウロスに暴力的に犯されるが、ピルを飲んでいたために妊娠せず、またケンタウロスを家で育てることになる。彼女は見境なく女を襲うケンタウロスに想像上の明太子をおかずにご飯を食べさせたり、自慰を覚えさせる。しかし、旅先で再開したのんちゃん(園子は本名を言わず、のんちゃんにはバレない)とその友人たちと食事会(その映像が流れる)を楽しんでいる間にケンタウロスはやせ細って死ぬ。そして母の葬式が演じられ、園子が死に、唐突な暗転によって芝居は終わる。

 のんちゃんによる、象徴的な台詞がある(正確には覚えていないのだが、大意はあっているだろう)。人間は宇宙のようなものだ。遠く離れても、あなたの宇宙に私は存在するし、私の宇宙にはあなたがいる。この台詞は、引っ越していくのんちゃんが去り際に園子に対して述べるものだが、後に死にゆくハワイによって反復され、また食事会において園子によって反復される。
 この物語の中で、何度も描かれたものに、糞便を食べる行為、尻を舐める行為があった。また、ダニやノミにとっての世界となっていたハワイ(関係ない、ということもないが、血を吸われた彼女の「限りある資源だよー」という台詞は笑える)は唐揚げにされ食され、それを食べた者やその子にまで溶けていく(そういった台詞がハワイによって述べられる)(結局、園子は吐き出すのだが)。その園子は母の胎盤を好んで食べた、というエピソードも語られる(何匹も産まれた子犬たちを覆う膜を食べるイヌ、も物語には登場する)。
 ここでなされているのは、内部と外部の二分法の否定であろう。内部/外部は、自己/他者と言い換えられても良い。園子にとって、のん(=フランス語のnon、は言い過ぎだろうが……)ちゃんは紛れもなく他者であるが、同時に園子の内部の(外部であるはずの)宇宙に存在するという。ダニやノミにとって世界=宇宙であったハワイが園子の内部の宇宙に存在する。それを食することは? 糞便を食べる行為はシンプルである。排出、外に出されたものが、食べた者の内部に行く。外部はまた別の内部である。胎盤・胎膜食に関しては、それを産んだ当人が食すという点で、ある者の外部=ある者の内部、という構造になっている。
 出産も、内部と外部の二分法の否定に関わると言えるのではないか。ダニ・ノミはハワイの体の上で繁殖する。生み出される外部はハワイの内部なのだ。また、そもそも出産とは、胎児=内部であったものが、乳児=外部となるものでもあるだろう。生む・生まれる者の互いにとって、出産は内部と外部の撹乱である。
 こうして、内部/外部のスラッシュは否定される。この、内部と外部という思考様式の成り立たない空間を、〈迷Q〉と呼んでみよう。
 本作の背景となっているものに、ギリシャ神話に登場するクレタ島の迷宮とミノタウロステセウスの物語があるだろう。テセウスは脱出不可能とされる迷宮に入り、雄牛と人間が交わって産まれたミノタウロスを退治し、アリアドネの糸をたどって脱出する。
 しかし〈迷Q〉には出口はない。いや、出口は入口であり、また入口は出口である。いや、それも違う。そもそも〈迷Q〉においては、内部と外部が存在しないのだから、出る/入るの二分法が成り立たない。出口も入口も存在しない。さらに〈迷Q〉には、目的地がない。『迷迷Q』には、山には頂上という目的地があるが、森は自由である一方目的地がない、といった園子の台詞があった。ここで言われている山はクレタ島の迷宮と退治するべき怪物ミノタウロスに重なる。しかし森に重なる〈迷Q〉には、相対化されて描かれるニンゲン、イヌ、バッファローケンタウロスしか登場しない。園子はケンタウロスと交わるが、ニンゲンと他の混血児=ミノタウロスを孕まないのだ。イヌは雑種であったが、ここではニンゲンが異種との間で混血の子を産めない、ということが重要であろう。ミノタウロスはニンゲンとウシの間に産まれたが、それは神話に過ぎない(『迷迷Q』における、父親が明太子に精子をかけ、孕ませるという園子の見た夢も、夢に過ぎない)(ニンゲンとウマの混ざったケンタウロスは存在しているが、神話においてケンタウロスは絶対的な怪物でなく一つの種族である)。
 この〈迷Q〉の在り方は、クラインの壺を想起させはしないだろうか。ここで言うクラインの壺幾何学のそれというより、浅田彰が『構造と力』において資本制の比喩として用いたそれである。「外部をもたない、というよりも、外部がそのまま内部になっている」――クラインの壺的な〈迷Q〉に対するクレタ島の迷宮は、『構造と力』において絶対的な存在を頂点とする円錐型の図で表された古代専制国家の在り方と重なる。神、王、絶対悪、理想といった絶対的なもの――ミノタウロスのごとき存在は、消失して久しい。

 ところで、クレタ島の迷宮を背景にした『迷迷Q』の舞台上に現れる、棒にきちんと結び付けられているゴム紐は、アリアドネの糸を思わせる。洗濯物を干す紐で、母の首に巻きつけられるものと、フランシー/ハワイの首輪に繋がった紐の、二本が、糸として登場していた。この二本の糸は首に巻きつけられるものという点で、表面的には、両者を苦しめるものであるように見えるが、しかし母とハワイの糸に対する態度は異なっているように見える。フランシー/ハワイについては、その糸は母にこっそり結びつけられた紐であって、彼女は逃げ出そうとするようにそれを引っ張るのに対し、その母親は、自ら回転して紐を首に巻き付けるのだ。そして彼女は子沢山のために、洗濯機を何度も何度も回す(実際に舞台上には洗濯機が置かれている)。
 先に述べたように、前作において回転運動は地球と、それに依存した暦、時計、社会制度といった意味での「ニンゲンの世の中の『形』」を暗喩していた。そこには再生産も含まれていたのだが、本作における母の動きは、そういった「形」に、あえてはまろうとするものに見える。
 アリアドネの糸は、迷宮の入口に結び付けられ、それを辿れば入口=出口に行ける、というものであった。しかし、今まで述べてきたように、〈迷Q〉には入口も出口も存在しない。〈迷Q〉から抜け出すには、母やフランシー/ハワイのように、死ぬしかないのだ(これまで述べてきたことからわかるように、フランシー/ハワイ以外の者にとっては、彼女は外部に行った、ということにはならないのであるが)。では、アリアドネの糸は、どこに繋がっているのか?
 わからない、というのがとりあえずの答えになるだろう。いや、おそらくどのような答えも、相対的なものにしかならないのではないか。例えば母にとってはそれは〈O〉に象徴される日常生活に結び付けられていたのではないか。ハワイにとっては? 母、園子、及びその兄弟であっただろう。彼らは端的に暴力をふるう存在であり、また強制的に結び付けられた紐でもあったが、しかし、そこに糸は結ばれていた。それは母とは違う場所だった(舞台上でも、違う棒に結び付けられている)。いや、広く見て、社会、前作における〈O〉に、両者とも結び付けられている、と言ってもいいかもしれない。しかしどちらにせよこの糸が〈迷Q〉、消化器・生殖器といった器官及び精神からなる内部と宇宙という他者や自然からなる無限の外部のクラインの壺的に合わさった〈迷Q〉、そのあまりに巨大な問題系から抜け出す役に立つはずはない。アリアドネの糸は、〈迷Q〉においてはアリアドネの糸として機能し得ない。

簡単に進めていくことができなくていままでしていたようにはならなくて迷迷Qだけに迷走してはがゆい時間がたくさんでした。毎日おさめられてしまっているものおさまらずまだ漂っているもやもやしたものをどうすればいいのか考えて考えてそうやってつくってまだこんなふうにおさめたくないと考え続けます。

 市原沙佐都子は当日パンフレットにそう書いている。当然であろう。彼女は、『迷迷Q』は、〈迷Q〉に迷いこんでいるのだ。それは生命という内部と宇宙という外部、と呼ばれているものからなる、入口も出口もない、そして目的もない、とてつもなく巨大なテーマ=難問(Question)である。この〈迷Q〉は、「ニンゲンの世の中の『形』」(QのHPにある表現である)を問う限り、ニンゲンそのものが〈迷Q〉じみているのだから、当然たどり着いてしまう場所であったと言えるだろう(〈O〉を構成しているのはニンゲン、無数であると同時にクラインの壺的に合わさり繋がった〈迷Q〉である)。ドゥルーズ=ガタリ浅田彰は《クラインの壺からリゾームへ》という、不可能性をも指摘されるスローガンを唱えた。市原佐都子は、〈迷Q〉の探索をとりあえずは断念し、『迷迷Q』を園子の死によって唐突に閉じてしまったように見える。しかし〈迷Q〉は存在を初めてしまった。今後のQは――それを遠ざけ、無視するだろうか。苦しみながらも、挑戦し続けるだろうか。

 ところで……『迷迷Q』の開演前、映しだされていた〈Q〉は、空白部分が塗りつぶされていた(空白部分の塗りつぶされた〈Q〉は『迷迷Q』のフライヤーにも見られる)。これは、卵に飛び込む精子のように見える、し、一本糞をする動物のようにも見える、し、つまりは生まれてくる子供にも見えてしまう、のは私だけだろうか?