FUKAIPRODUCE羽衣「Still on a roll」

FUKAIPRODUCE羽衣「Still on a roll」(7/11観劇)

FUKAIPRODUCE羽衣は、ホームページによると「作・演出・音楽の糸井幸之介が生み出す唯一無二の「妙―ジカル」を上演するための団体」である。これくらいのことも調べずに第16回公演「Still on a roll」を観に行ってしまったが、おもしろかった。
僕はそもそもミュージカルのノリがあまり好きではない。といってもそう多くを観ているわけではなく、劇団四季のノリを想像しているわけだが、しかし「Still on a roll」の中で歌われる歌は素晴らしい。ミュージカルがなぜ好きでないというと、途中で歌われる歌や踊りが、物語の流れを中断させてしまう、ミュージカルを見に行くとどうもいつもそのように感じてしまうからである。しかし、「Still on a roll」の歌は、物語の構成要素として存在しているように見える。それはミュージカルの形式においては当然求められるもので、それに成功している団体も少なくないのかもしれないが、とにかく飽きることなく、中断される感覚を持つこともなく、観劇することができた。そしてとても良かった。観ている時はおもしろく元気でエロく、そしてじわじわ泣ける演劇である。ああ(泣いてる)。見に行ける方はぜひ、という感じです。

 

陰鬱な雰囲気で劇は始まる。いや、その陰鬱さには滑稽味も混じっており、陰鬱である、と断定することはできない。場所は東京の夜、恋人が水商売で稼ぐお金で生活する酔っ払った男、役名「おっさん」が一人、ふらふらと歩き、身の上をあるいは自嘲気味に語り、アスファルトに小便をする。そして、アスファルトの隙間から雑草が生えていることを発見し、劇の雰囲気は一転する。舞台は村へ、気のいい地主のイチローと、太陽の下、地を耕し、汗を流し性を楽しむ農民たちの歌と踊りが始まる。
明言はされないが、この村は東京にいる酔っ払った「おっさん」の夢であろう。アスファルトの割れ目の雑草に、彼は土を夢見るのだ。
劇はここから、農民たちの色恋沙汰や、コリンズ・メアリー夫婦とブラッド・ポリープという兄妹の浮浪児との交流を描く。これらの楽天的・享楽的な生活は、すべて一切の影もない。夫妻と兄妹の交流の後には東京の場面が挿入される。ここの歌も最高なのだが、ここで描かれるのは村でのものと比べればグロテスクな性愛である。
このユートピアのような生活に、影が差すのは、農民のサブローとヴェロニカの結構式の最中である。結婚式自体は順調に行われ、それと重なる形で、マイクは「ハリウッドで映画の勉強をする」夢を持つクリスティへの告白を決意する。この告白の瞬間、「女心とドストエフスキー さっぱり意味がわかんなかった」で始まる「愛の花」が歌われ踊られる(この歌、お気に入り)。そして歌の終わりで、ブラッドの妹・ポリープが倒れるのである。
そして舞台は東京に戻る。東京のスナック、「おっさん」の恋人であるホステス1と金を持つおじさんの会話がある。ホステス1とおじさんは、店を超えて肉体関係にあり、彼女はそれによって生活費を稼いでいる。そして彼女は彼に妊娠を打ち明ける。ここの鯉和鮎美演じるホステス1はすごくエロい(必見)。そして、彼女がここで歌う「海に行きたくなったら」は、本当に泣ける。
スナックのシーンの後は、船をこぐ兄妹のシーンになる。彼らは妹の病気を治すために「大きな街」に向かっている。夢から覚めつつある、と言ってもいいだろう。
そして最後の場面、東京、ラーメン屋「ふく神」である。物語は酔っ払った男が雑草を見つけ夢を見るところから始まったが、このシーンの冒頭では彼は農作業の真似をしている。そこへ、スナックの仕事を終えたホステス1がやってくる。彼の「おっぱいとか触られなかった?」という問いに彼女は「んーどうでしょう」と答える(泣ける)。彼女は彼が食費として渡した千円を酒にしてしまったことを叱るが、「もう、ラーメンでも食べて帰る? ふく神いく?」と優しく言う。笑いと涙なしには見ていられない。ふく神では、ブラッドとポリープががつがつと大量の料理を食べている。そこでホステス1は、おっさんに妊娠を打ち明ける。おっさんはそれを祝福し、乾杯する。泣ける。
彼らの出て行った後、ブラッドとポリープは食い逃げをする。それを店員に見つかり、舞台の最後の台詞となるのが「やべえ、逃げろ!」である。

さて、ストーリーを追ったが、この物語のキモは村と東京の対比にある、と言ってしまえばつまらないが、この二項が大きな要素となっている。そして、演劇ならではの手法として、村と東京で同じ役者が違う役を演じることも、重要であろう。村と東京を越境するのは、ブラッドとポリープの兄妹のみだ。
おっさんはコリンズと、ホステス1はメアリーと同じ役者が演じる。他、気のいい地主はホステス1とお金で繋がった肉体関係にある会社員のおじさん1と同じ役者であり、ヴェロニカは東京では二人の息子(農民の二人)の「おっかあ」として、息子二人の近親相姦的性欲の対象となっている。村で映画監督になる夢を抱いていたクリスティは、東京では同じく監督を夢見て映画学校に通っているホステス2であり、村ではヴェロニカと結婚するサブローにセクハラを受けている。ここで気づくのは、おっさんの夢見た村でのキャラクターと東京でのキャラクターが、少なからず重なる要素を持っていることであろう。
東京でのキャラクターたちが、村で育っていたら。そうした可能性として見ることもできるだろう。おっさんは村ではコリンズであり、牧師をしていて、ギターを弾き、東京ではホステス1のメアリーと結婚している。こうした善き可能性が、しかし東京では果たされない。村は、おっさんの夢であるだけでなく、東京のキャラクターたち全員の夢であるとも言えるだろう。東京のキャラクターと村のキャラクターは重なり合っている。そう考えると、村での一つ一つのエピソードと東京でのエピソードの関係が見えてきて、構成の巧妙さに驚かされる。

さて、もう一つ気になったのはタイトルでもある「Still on a roll」、日本語で「まだまだ元気だぜ」。この言葉は、最終版、ホステス1が妊娠を打ち明ける前のおじさん1の台詞に登場する。「人間は、戦争したり、原爆落としたり、原発吹っ飛ばしたり、しましたが、まだまだ元気はあるぜって、伝えてくれよ」というものだ。「Still on a roll」、観に行く前は僕は、ポジティブな意味の言葉だと思っていた。というかもともとはポジティブな意味の言葉であるはずである。だから、この劇がシリアスな方向に進むとはまったく予想していなかった。しかし、実際に戯曲の中で語られたこの言葉は、どう考えても暗い影を纏っているように思える。
戯曲の中の「村」と比べて、「東京」が「まだまだ元気だ」と言えるのはセックスの部分だけであるように見える。あるいはそういう見方もできるかもしれない。つまり、戦争しても原発吹っ飛ばしても、我々は繁殖を続けるぞ、というメッセージだ。しかしどうもしっくりこない。「東京」での性愛が、特に「まだまだ元気だ」という台詞までに描かれる性愛が良いものだと思えないからだ。性愛が「良いもの」である必要はないのかもしれなくて、それなら別に構わないのだが、性愛の性だけ残ってる、と考えると、皮肉としての「まだまだ元気だぜ」である可能性も考えられる。
また、いくら否定的に見える「東京」でも、最後に描かれたおっさんとホステス1の愛は、本当に美しい。おっさんはおじさん1と違い、お金はなくともホステス1の妊娠を祝福する。ホステス1はおっさんにやさしい嘘()をつき続ける。また、逃げていく浮浪児も印象的だ。土のない街「東京」でも、彼らはしぶとく生き抜いていくのだろう。
僕の考えでは、「まだまだ元気だぜ」という言葉が発せられた時、それは皮肉でしかなかった。「村」でのような人間的生活のできない「東京」で、性は愛を失いつつも続けられる。そのことに対する皮肉である。しかし、この劇が終わった時、「まだまだ元気だぜ」は、祝福の言葉として響く。それはホステス1の身ごもった命への祝福であり、しぶとく生き続けるであろう兄妹の命への祝福だ。そしてまた「まだまだ元気だぜ」は、どのような状況下でも生まれ、生き抜く命たちの、力強い叫びなのである。