シベリア少女鉄道「遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援2013」

シベリア少女鉄道「遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援2013」
作・演出:土屋亮一 2013年7月3日〜14日@王子小劇場

観て来ました。おもしろかった。再演らしいのですが、小耳に挟んだ情報によるとけっこう変わってるらしいですよ(噂。僕は今回しか見ていないので)。結末までは書いていませんがまあまあネタバレな記事で、ネタバレするとほんのちょっとだけつまらなくなるかも、という気もするので見に行く方は気をつけてください。

ブコメの古典的名作コミック『めぞん一刻』の登場人物の名前を使っていたが、もちろん中身は全然『めぞん』ではない。しかし、ラブコメの要素は受け継いでおり、勘違いが勘違いを生むような展開も『めぞん』風ではある。が、本作の目玉はそのラブアフェアではなく、珠玉の言葉遊びである。言葉遊びのためにシチュエーションとストーリーが用意されている、と言ってもいい。それは都合のよいプロットであるということを意味しない。この演劇の中心は「言葉遊び(と言って良いのだろうか?)」であり、中心のための細部として設定や物語が存在するようになるのは、当然なのだ。

なのでストーリーを紹介するのはほとんど意味のないことなのだが、簡単にまとめると、舞台は喫茶店で登場人物は一番から七番まで、『めぞん一刻』のキャラクター名をもらった者たち。時間はリアルタイムで、「次の日、」みたいなことはない、場面転換もない。一部の設定は受け継いではいるが基本的に『めぞん』とはまったく別のキャラクターであり、「五代」はコミュ障のオタク風で、「こずえ」はイタい不思議ちゃんというか勘違い女というか(原作でもそうとか言わない!)、「朱美」は「響子」を偽名として用いて二股三股をかけるどいひーなウェイトレス(メイド。彼女を演じる篠塚茜は30歳くらいなはずですが、かわいかった……)。他、「こずえ」の親戚の女、五代と瓜二つという設定で五代と一人二役の熱血青年「三鷹」、最終盤まで「いらっしゃい」としか言わない「マスター」、の七人である。物語の内容はそんな彼らのラブコメディであり、こずえが五代を好きになる、というところまでは『めぞん』といっしょだが、「響子」が存在しないことから、五代も三鷹もマスターも恋愛対象(と言っておくが…)は朱美であり、この複雑なカンケイが物語を引っ張っていく。

この物語自体もかなりおもしろいのだが、しかし何度も言うように目玉は怒涛の言葉遊びである。七人はそれぞれ口癖、決め言葉のようなものを一つ持っていて、例えば朱美は「誉められると、まいる☆(星をつけたくなる感じで言う。すごくかわいい。)」五代は「全然わかんない!」なのだが、これらが、つまるところ本劇のタイトルが中の「声援」となり、これらが叫ばれるごとに馬が前進する。何のこっちゃ、と思われるだろうが、芝居が始まってからしばらくは伏線のごとき状況が続き、その複雑な状況が極まったところで、破裂するかのごとく、舞台セットの上方にレーンと馬が現れるのである。この突然の登場はもちろん予想外なのだが、しかし競馬の伏線は芝居の最初から仕掛けられているために、大笑いしつつもすんなり受け入れられる。そして馬には、「ホメラレルトマイル」「ゼンゼンワカンナイ」といった名前がつけられており、その名が呼ばれる=言われる=声援!の度に、少しずつ前進するのた。

競馬が始まってからはもう最高におもしろい。結末は言えぬが、いつまでも見ていたいと思える、終わらないでくれ!と思ってしまうほどの笑いが、もう舞台の灯りが消え客灯が灯るまで、ずっと続いていたように思う。 彼らのラブコメディは、競馬の進行に合わせて動き、「誉められると、照れる☆」「全然わかんない!」といった台詞の度に馬が進む。そして他の台詞も、競馬になぞらえられたりするのである。この遊び、要するにダジャレのようなものだが、これがとんでもなく上手い。一、二回そういうネタを仕込むのは誰でもできるであろう。しかし、あれだけ長い間、クオリティの高い言葉遊びを続けられるのは、才能である。見事に芝居が閉じられ拍手の鳴り止まぬ中、爆笑を引きずりながら、思わず「すげー」と呟いてしまった。決して後に何か良いものが残る、といった劇ではない。帰り道も、「良かったなぁ」というよりは「もっと見てたかった」といったことを感じてしまった。道徳的な(暗い)物語の忍び込まない、ただただエンターテイメントとして最高に楽しめる、そんな演劇であった。