きたまり+Offsite Dance Project共同プロデュース『RE/PLAY(DANCE Edit.)』

きたまり+Offsite Dance Project共同プロデュース『RE/PLAY(DANCE Edit.)』
多田淳之介演出、2014年2月14-16、急な坂スタジオホール

 14日、雪の中野毛山を上り、観ましたので考えたことのメモ。私は『再/生』からの一連の上演を観ていないので、『RE/PLAY』からしか考えることができないのだが。うろ覚えになってしまって、ダメですね。こういうのはやはり観てすぐ書き始めなければな、と思いました。

 「TSUNAMI」の再生からパフォーマンスは始まった。一度目は、少しずつ音量を上げて行きながら、二度目は、音が途中で途切れる、といったエラーを含みつつ、やはり少しずつ音量を上げて行きながらであった(最後にはちょっと自分の耳が心配になるくらいものすごく大きな音になる)。その間八人のダンサーは歩き、それぞれのポーズを取り、倒れた。
 次に再生されたのは「Ob-La-Di, Ob-La-Da」であり、その間ダンサーたちはそれぞれの振り付けを踊る。この曲は10回繰り返し再生された。その間、ダンサーたちの動きは徐々に激しくなっていったように見えた。また曲の音量も少しずつ上がっていった。
 「Ob-La-Di, Ob-La-Da」の動きが終わったあと、ダンサーは8人並び、観客席の方を見つめた。それからまた冒頭と同じように歩き、ポーズを取り、倒れるという動きを始めたが、その間彼らは、「みんな飲み物持った」「横浜公演おつかれ」といった、打ち上げの飲み会らしきやりとりを声だけでしていた(店員の発言らしきものもあった)。
 それから、相対性理論の「QMSMAS」があり、「ラストダンスは私に」(おそらく)があり、「GLITTER」が二度あった。「GLITTER」はクライマックスにふさわしい激しい振りの付いたダンスであった。一度目が終わってダンサーは皆息を切らしながら倒れ、そして二度目が始まってからまた立ち上がり、彼らは踊りだした。

 「TSUNAMI」は、容易に2011年3月11日、日常を押し流したあの津波を思い出させる。当時、「TSUNAMI」は放送自粛される程だった。その「TSUNAMI」を冒頭に持ってくる意図は、あまりに理解されてしまいやすい。あまりに安易であるようにも思う。しかし、津波から始められなければならないのも十分に分かる。2014年現在、津波を超えて、日常は「再生」されたように見える。
 「再生」とは何だろうか?
 このパフォーマンスに従って、「再/生」、「再」と「生」に分断してみよう。そうして、舞台芸術における「再生」を考えると、この語の孕む矛盾が見えてくる。すなわち、「生」一回性と、「再」再現性の矛盾だ。この二つの相反する性質は、演劇、ダンスといった舞台芸術の孕む原理でもあるだろう。それらの芸術において、多くの場合、一回限りの生の上演を、期間中再現し続けることになる。しかしその再現は、「再生」ではありえない。再現性が求められていながら、厳密に言えば、一回一回のパフォーマンスを再現することは決してできない。そこには必ず「生」の差異がある。
 『RE/PLAY』は、そうした再現の不可能性を凝縮しているように見えた。例えば10回繰り返されたBeatles「Ob-La-Di, Ob-La-Da」。10回繰り返した、というが、1回1回には必ず差異があっただろう。しかし、それが後半になって、動きが激しくなってきてからしか、そこに差異があることに私は思い至らなかった。彼らは確かに、同じ振り付けと言ってよい動きを毎回行っていたのだが、よく見れば、明らかに強調され、同じ振り付けとは言えない動きになっているものもあり、ダンスを見慣れている者はより多くの差異を各回の中で見つけることができただろう。
 そして「GLITTER」である。激しい踊り故に、一度目の終わった段階でダンサーたちの息を整える音が客席にも聞こえてくる。しかし「GLITTER」の再生が再び始まると、彼らは立ち上がり、再び踊る。その振り付けにも差異があったはずだが、私にはどこが違った、と言うことができない。しかし、その合間に、踊っているときと同様無表情のまま、ダンサーのうちの一人が息を切らしつつ客席を見つめる場面が何度かあった(一回目と二回目で違う者がそうしていたはずだから、やはりダンサーの動きは異なっていたらしい)。その視線は、無表情であるために逆説的に、観客に何かを訴えかけているように見えてきてしまう。本当に、ダンスを見ているのか? ――彼らが実際にそう問うているわけではないが、しかし私はその視線をそのような問いとして捉えてしまう。曲の1回1回、繰り返されるダンスを、私は「繰り返されている」、曲と同じように「再生」されているものとしてしか観ることができない。しかし実際には、ダンスが激しくなって、誰の目にも差異の明らかになる前にも、「生」である故に生じるエラーだけでなく、計算された差異があったはずだ。それは、実際に踊っている者には切実な差異、確実に再現しなければならない差異だろう。しかし私に見えてきたのは、「Ob-La-Di, Ob-La-Da」が8回、9回も繰り返された後だった。
 また、横浜公演の打ち上げのシーンも、「再生」の概念を揺さぶる。しかし私が観たのはそもそも一回目の横浜公演であって、その打ち上げの中の会話は「再生」であるはずがない。しかし、私はまずそれを打ち上げの「再生」と考えてしまう。もし二回目や、後日の公演であれば、「再生」であることを疑いもしなかっただろう。
 日常の「再生」。日常は反復で成り立っている。「Ob-La-Di, Ob-La-Da」、「Life goes on」と何度も何度も繰り返されたように。しかし、反復、「再生」のように見える日常は、あるいは危険な差異を持つものかもしれない。3月11日の津波は、『RE/PLAY』の「TSUNAMI」における明確なエラーのように、明確すぎる「再生」のエラーであっただろうが、しかし、じわじわと大きくなっていく差異に、我々は気づけるだろうか? だんだんと激しさを増していった「Ob-La-Di, Ob-La-Da」を、何に重ねるか。

 感想として……多田淳之介はやはり恐ろしい。『シンポジウム』でも感じたことだが、どこか観客を試しているというか、馬鹿にしてるというか、そういう感じがある気がする(もちろん良い意味で)。息をきらしながら無表情のダンサーの観客を見つめる目、『シンポジウム』でじっと無言で無言の観客を見つめていた多田淳之介――。
 あと、彼は本当に音楽の意味合いを変えてしまう。「GLITTER」を多田淳之介演出作品を思い出すことなく聴くことはできなくなったし、『RE/PLAY』のせいで「Obladi Oblada」が恐ろしい。恐ろしく、そしてなぜかリピートしてしまいたくなる。
 客席にいた女性がダンスを観て笑っていたのが印象的だった。おそらく彼女は小劇場の俳優(どこかで観たことある)で、おそらく舞台に知り合いがいたのだろうが、知っている者がああした動きをしていれば笑ってしまうだろうな、と思わされた。私には、無表情で淡々と行われる、そして繰り返されるダンスは恐ろしかったのだが、少し距離感を変えてみると、確かに滑稽だし笑えてしまう。