「優しいサヨクのための嬉遊曲」の美少女について

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

 

「ふふ、考えても駄目よ。考えるっていうのは悩むことなのよ。悩んだり、苦しんだりしたくなかったら考えない方がいいんですって」

 「優しいサヨクのための嬉遊曲」最大の魅力(?)である、美少女・みどりの言葉である。彼女はバイオリン奏者であり、「長い首、あまり豊かではないが抽象彫刻のような胸、珊瑚色の唇」を持ち、「茶色の瞳、白い肌」を持ち、「顔には余計なものは一切」ない。その顔は、「取りはずしたばかりの石膏像のような〈顔のエッセンス〉」である。そして、眠るのが好きで、隙さえあれば空気を見るような少女だ。「何見てるの」と聞かれ彼女は応える「何も見てない。見えるけど見てないの」。そんな彼女の思考には「尻とりほどの秩序すら」ない。

 こんな美少女、ありえない! と言ってしまうのは簡単だ。いや、ライトノベルの流行する現代であれば、むしろ皆簡単にこのような少女を受け入れてしまえるのだろうか? この小説の書かれた1983年と言えば、ちょうどライトノベルの最初期の作品の登場した頃と重なる。それらからの影響を考察するのもおもしろいだろう。しかし、このような少女のあり方はむしろ、文学史的には1980年、田中康夫『なんとなく、クリスタル』とともに始まった80年代の空気感のようなものに奇妙にマッチしていると言えるのではないだろうか。

 「政治の季節」が終わり、中心のない、記号的な、終わりのない(故に終わりが夢想された)時代が始まった。オーケストラサークルで嬉遊曲を奏でる美少女は、この時代にいち早く対応した少女と言っていい。彼女は政治をしない。「サハロフの誕生日集会をやるんだ。来ないか」と誘う主人公に彼女は、「行けたら行く」とただそれだけ応える。左翼運動はサークルのイベント、というレベル(サヨク!)にずらされる。また彼女はひたすら記号的だ。「長い首」「あまり豊かではないが抽象彫刻のような胸」「珊瑚色の唇」「茶色の瞳」「白い肌」……語られる彼女の様子はひたすら「抽象」的で、「エッセンス」である。そして彼女は考えることを放棄し、魅力的に微笑みながら考えるな、と囁きかけるのである。

 第六楽章のロンドのように生きよう。幸福に満ちたメロディの永久運動に身をまかせよう。永遠に踊り続ける少女と同じ目に合わされてもいい。みどりと付き合うために左翼サークルを抜けた主人公はそう考える。そんな彼への「考えるな」という囁き――その囁きは悪魔じみてもいるように感じるのは私だけだろうか、といった風なことは「何も考えず」に、このあまりに甘く美しい少女・みどりに酔いしれながらこの小説を読むというのが、80年代の延長を生きる我々にはふさわしいかもしれない?