川上未映子×マームとジプシー(東京国際文芸フェスティバル2014クロージング!)

 東京国際文芸フェスティバル2014(というものがあったわけですが、みなさんご存知なんでしょうか。僕は知ってましたがスルーしました)のクロージングイベントに行きましたので少し感想を、書き散らしていますがお許しください。主に、というか全部川上未映子×マームとジプシーについてですが(まあ、それだけ目当てでしたし)。川上未映子×マームとジプシーはこれから全国を回る(こちら)ようなので、皆さんぜひ。

 クロージングイベントの冒頭にあったマームとジプシーの公演は、前半が青柳による川上未映子先端で、さすわさされるわそらええわ」のリーディング、後半は川上の詩「まえのひ」をテキストにした上演。
 まず前者は、音楽が誰のものなのかわからないのだが激しいロックを背景にしつつ、青柳いづみが「先端で、さすわさされるわそらええわ」を読むわけだが、全体として一つの前衛的音楽のようであった。緩急があり、激しいところは激しく、切ないところは切なく、これを「読む」と呼んでいいのか、というのはリーディング公演につきものの問題だが、「先端で、さすわさされるわそらええわ」の魅力を最高に引き出していたように思う。僕はもともと川上のこのテキストはあまり好みでなかったのだが、青柳がやると、やっぱり泣ける(ここにも、マームとジプシー女優が出てくるだけで泣ける、という問題があるのだが)。彼女の関西弁というのも新鮮でしたが、泣かせどころはいつものマームとジプシー、という感じがしなかったこともありません。
 後者「まえのひ」は、ユリイカ2013年10月号に載ってる川上未映子の詩の上演。こちらはリーディングではなく芝居だとはっきり言えるものなのだと思う。マームとジプシーがおそらく「てんとてん、」から使い始めたはしご脚立、あのはしご脚立に飛びのり、飛び降りるという動作の反復は青柳いづみの身体も相まって不安定で、その不安定さが飽きさせない、のだが、テキストはややおもしろくない。これは、あるいは書き言葉として読めばおもしろいものなのかもしれないが、舞台で藤田貴大の手で演出されてしまうと、そのテキストのテーマ、書き方の藤田貴大っぽさがあからさまで、しかも藤田貴大のものほど舞台にマッチしていない、といった感じで、ほとんど聞き流してしまった。テーマ、「〜だろう」「かもしれない」そして「消えてしまったもの」。そうしたテーマとほぼ完璧に呼応する「反復」の技法。藤田貴大のずっとやってきたものであって、そんなものをあえて書いて藤田貴大に演出させるというのは、ちょっといただけず。
 どちらともとにかく青柳いづみの偉大さだなぁといった感じでした。
 その後の作家ルース・オゼキとの対談の中で川上は「まえのひ」について「3月10日」という言葉を使っていた。この言葉のセンスはとても良いように思うのだが、しかし「まえのひ」は3.11以後としてあまりに素直すぎるように感じる(対談の中で語っていたことも、ちょっとナイーブ)。このような素直さは、藤田貴大のような若いイケメンにしか許されないのではないだろうか。(藤田貴大の成熟、は気になる。『cocoon』においてでさえ、個人的な青春っぽいテーマに回収していた印象があるからなぁ……)
 しかし、川上未映子の「日常の反復性と今の一回性」という言葉は、かなり核心的な一言であるように思う。さすが芥川賞作家なだけはあるなぁ(何様なのか……)。