『演劇をめぐる大雑談会vol. 5 ゲスト藤田貴大』メモ・感想

『演劇をめぐる大雑談会vol. 5』という、早稲田の水谷八也教授の企画している講演会に藤田貴大が来るというので、聴いてきました、のでメモと考えたこと(発言は正確な引用ではない場合があります。すいません……)。

 隣に後輩の女の子が座っていたのだが、藤田を見るなり「イケメン」と10回くらい呟き辛かった。しかし確かにイケメンで、そしてイケメンだからこそ許される演劇を作り続けている。藤田のようなイケメンだからこそ許される演劇、つまりマームとジプシーの作品をブサイクなおっさんが演出していたら正直気持ち悪いわけで、それがなぜかと考えると、今日の講演で水谷教授の指摘していたように、藤田演劇には戯曲、演出、手作りパンフレットにまで行き届く「女性的」(かぎかっこを付ける、一応)な感覚と、ストレートなエモーショナルさ(それも主に女性の感情)があるからだろう。

 藤田の「女性性」は、僕の感覚的には男性嫌いにも近いのではないかという気がした。例えば彼は「男子とはうまく話せない」「(演出上の)意図が伝わりにくい」といったことを語っていた。さらには「仕事でミスをするのはいつも男子」とまで言っていた(バイト先で、男子の新人がきゅうりの切り方を知らなかった、女子ならありえない、というエピソード)。これまた水谷教授の指摘するように、藤田の演劇・俳優に対する態度は「男性的」であって、藤田が「女性的」な人間である、とは言えない。しかし、彼はかつでは俳優の用いる柔軟剤まで指定していたらしい(!)。学生時代、行き詰まり、旅先の屋久島の小さな喫茶店で、小さな空間で「把握できる規模」の演劇をやろうと思いついたと藤田は語っていたが、柔軟剤に至るまで把握してしまうというのは、凡人の僕には想像つかない。先日観た『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』には男性と女性で洗剤を変える、という話が挿入されていたが、このような感覚は、極めて「女性的」、と言えるだろう(少なくとも洗濯をしない「男性」にはなかなか思いつけないのではないか?(僕には無理))(美術や衣装(現在はデザイナーがついているらしい)まですべて藤田自身が仕切っていたらしい……圧倒的)。

 そしてエモーショナルさ。藤田自身「エモさ」という言葉を使っていた。私の知っている「マームとジプシーの芝居は苦手だ」という人は皆、このエモーショナルさが嫌いだという。藤田の代名詞とも言える手法・リフレインによって感情を高ぶらせる俳優を見て、私のような人間はすぐに泣いてしまうのだが、確かにその「泣き」の手法のいやらしさのようなものを感じることもある。藤田はこのエモさについて、演劇との出会いがまずミュージカルであったために、「抵抗感がない」「演劇に感情があることは悪くない」と語っていた。こう言われてしまうと、おそらく彼はこれからもエモーショナルな芝居を作り続けるだろうし、嫌いな人は嫌いなままでいるしかないのだろう、という気がする。

 作り続ける、といえば、「いつまで繰り返し(リフレイン)を繰り返すのか、とよく聞かれる」と藤田は語り、困惑しているといったようなことを話していた。彼はリフレインを、繰り返し行う稽古から発想したという(俳優が言葉を獲得していく稽古をそのまま見せられないか?)。そして、「頭の中で繰り返し続ける限り、繰り返し続ける」と言った。「作品にせざるを得なかったことを作品にしている」とも。
 これは、後出しのようであるが、彼の作品を何度か観ているうちに僕の感じたことでもある。つまり、彼がリフレインするのは、彼が演劇をするのと同じくらい、当然のことなのではないか、ということだ。水谷教授は昨今の脱物語的・反復の手法を用いた演劇について「原点回帰ではないか」、中世の、変化ではなく状態を見せる演劇への回帰ではないか、といったことを語っていた。水谷教授の話はここからゲルトルード・スタイン(誰(僕が知らないだけです))の前衛的な詩に展開し、僕はついていけなかったのであるが、藤田のリフレインが、演劇の原点、というよりは原理のようなものに触れている、というのは僕にも感じられる。そもそも演劇とは(複数回の上演を行う限り、あるいは、稽古を行う限り)反復を原理としており、それもリピートではなく「リフレイン」(楽譜上は同じでも、ニュアンスが変わる)だ。そして藤田がここに触れるのは、このような反復の在り方が、喪ったものを思い出すことの在り方と重なっていることを直感している故であろう。繰り返す限り、思い出す限り、藤田はリフレインを続けるだろう。

 他におもしろかった話として、口立ての話(文字でなく、声で言葉と出会って欲しいから)と、一見パーソナルでありながら、(水谷教授曰くキュビズム的な(なかなか納得できる))リフレインによって純化され、「誰のものでもない」純粋な「喪失」「帰り」が表現されているのではないか、といったものがあった。キュビズム、専門外すぎてまったくわからないのだがこのあたりの議論はかなりおもしろい気がする、けどわかりません。あと、藤田の出生の話。何度も語られているのであろうけど、「伊達」という土地や、母親との関係、演劇との出会い方等々、改めて作家論的おもしろさを感じた。朝、酔っ払いながら学友が登校するのを見て敗北感に打ちひしがれた等、学生時代のやさぐれていた頃(?)の話も非常に良かった。母に「演劇ばかりやらせたのはあんただ」と逆切れした話や、さっきも書いたが屋久島の喫茶店での着想は、感動的だし天才という感じがするよなぁ……(「自分以上の才能はないと思っている」と言っていた)。