アースシーの魔法=哲学と物語——『ゲド戦記』

 

作家アーシュラ・K・ル=グウィンは『ゲド戦記外伝』の「まえがき」でこう語っている。

まったく実在したことのない、つまり一から十まで完全に虚構の世界を構築、あるいは再構築するときは、そのための調査研究は実在の世界のそれとは順序がいくぶんかちがう。けれど根底にある衝動や基本的な技法に大差はない。まず、どんなことが起こるか、見る。そして、なぜ起こるのか、考える。その世界の住人がこちらにむかって話すことに耳をかたむけ、彼らが何をするか、観察する。次にそれについて真剣に考え、誠実にそれを語ろうと努める。そうすれば物語はちゃんと重力を持ち、読む者を納得させるものになっていく。

ファンタジーの古典的傑作を三つ挙げるとすれば、出版順に、『指輪物語』、『ナルニア国物語』、そして『ゲド戦記』であるとよく言われる。『オズの魔法使い』が入ったり、最近では『ハリー・ポッター』がもはや古典と呼ぶべき作品となっているが、『ゲド戦記』は例えばその『ハリー・ポッター』の世界観にも大きな影響を与えている。そのような意味で『ゲド戦記』は間違いなく古典的であるのだが、その古典的凄みはやはり、その強靱な哲学の構築(調査研究)と、それを基盤とする強靱な物語から来ている。

ゲド戦記』と、邦題(原題は『Earthsea』(アースシー)で、物語の舞台である世界の名でもあり、その海と多くの島々からなる世界にふさわしい名だ)にその名を冠しているゲドは、比類なき力を持った魔法使い(大賢人)として設定されており、主人公として、あるいは重要な補助役として活躍するのだが、しかしその力には限界がある。そして、『影との戦い』から『さいはての島へ』に至るまで、協力者にめぐりあうことで、どうにか危機を脱するのである。協力を得、危機を克服するという、よくある・あるいはできすぎた物語だと言えばそのとおりなのだが、しかし、このような物語は、『ゲド戦記』においては哲学でもある。体系的な哲学に従っているからこそ、『ゲド戦記』の物語はできすぎているのだ。

ゲド戦記』の哲学は魔法や竜について語られることによって語られる。「古のことば」や「神聖文字」といわれる、特別な言語によって発動する魔法は、どこか世界のプログラミング言語を思わせSF的でさえあるのだが(実際にル=グウィンはSFにも傑作を残した)、そこでは、光と影、生と死、ことばと静寂といった二項対立と、その均衡、あるいは弁証法が大きく作用している。『ゲド戦記』の世界アースシーにおける魔法は何でもできる力などではなく、様々な二項対立の均衡の中で、特別なことばによって行われる。言い換えれば、均衡を破ることも、そのことばを超えたこともできない。そうした魔法である。

その在り方は、二項対立とともに発展してきた哲学の組み立てにも似ているように思う。そしてそうした魔法を基盤に展開される物語は、哲学の展開にも似ている。それが定番の物語に帰着するのは、哲学が弁証法的に進んでいくかのようだ。つまり、アースシーにおける魔法=哲学に従って物語が展開されるからこそ、物語にはあるべきところにあるべきものが、いるべきところにいるべき者が配置され、なされるべきことがなされるのだ。『影との戦い』から『さいはての島へ』までに繰り広げられた二項対立と弁証法の哲学は、『帰還』以降ではフェミニズム批評、脱構築批評にさらされもするが、それさえ魔法=哲学体系の強化に過ぎない。『A Wizard of Earthsea』(『影との戦い』)の冒頭に付された詩は、こうした二項対立を基とする魔法=哲学体系を簡潔に表現したものであると言えるだろう。

Only in silence the word,
only in dark the light,
only in dying life:
bright the hawks's flight
on the empty sky.
——The Creation of Ea

ゲド戦記』の魅力はその強靱さにある。『影との戦い』から一貫して、その強靱さが傷つけられることはなく、むしろ強められていく。ル=グウィンの語るように、こうした確固たる体系を構築し、「調査研究」された上で物語られることこそ、ファンタジーの傑作の条件であり、古典の条件だろう。

※2018年1月22日、この偉大な作家アーシュラ・K・ル=グウィンの死。その前後、僕は不思議と(というか、ジブリ映画のテレビ放映の話を耳にしたからだろうが)『ゲド戦記』を読んでいた。『ゲド戦記』の緻密に構築された哲学体系には生と死の厳しい二項対立があり、「影との戦い」から明示的に、隠喩的に、繰り返し物語られるものの一つに、その止揚/あるいは脱構築がある。作家の死の前後に『ゲド戦記』を読んでいたことは、作中で魔法使いらが偉大な賢人の死を察知するように、何か偉大な作家/作品の魔術的な力がそうさせたのではないかと、つい考えてしまった。