角田光代『八日目の蝉』

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

 

本っ当に男のいない小説である。
この小説の母親にとっては、家族=母と子でしかない。母も娘も、男を父親として見ていない。作中において子を育て見守るのはエンジェルホームの女たちであり、アパートの隣人の娘であり、作中において男性はむしろ子と母を引き離す役割を演じてさえいると見ることもできる(秋山丈博、あるいは警察官)。前半ヒロインにとってすれば、そもそも法制度自体男性によって作られたもので、産みの親以上に母親であったわたしが本当の母親でもいいではないか……とまでは彼女は言っていないけれど。

これは、子育てに関わらない男性に対する皮肉とも読めるのではないだろうか。はらませておいてそれか、っていう。人間の両性の持つ機能から考えて、男女の両親がいたときに、子との関係の深くなるのは通常女性の方である。受精後、出産までの十月十日の子の命は完全に母親に依存するわけであるし、出産後も、代替はあるものの本来的には母親の母乳でしか生きられないのが赤子である。まして日本のような社会においては「男性は外、女性は内(家)」といった分業が構造上半ば強制されており、この生物学上のもの以上に、母と子の絆は強められる。

この小説のおもしろさは、さらにその母親が本当の母親(生みの親)ではないところにあるのかもしれない。そういう意味では希和子は父親的でもある。彼女は女性でありながら腹で育て産み出したわけではなく、母乳も与えられなかった「親」なのである。
彼女による子育てと父親一人による子育てと比較した時、そこには「男女」の違いしか存在しない。これを前提とすると、角田光代の描きたかったのは、単なる「母親」ではなく「父親(女性)」だったのかもしれない。。。?

ただ、この物語=片親などと考えてはいけない。後半ヒロイン恵理菜(薫)の育ちは「歪んで」いるし、その子も母親ひとりの手で育てられると予想されるわけであるが、しかしこれは親が一人だから、というものではない。この物語は片親の中でも特殊なものを描いたものであり、片親による子育て批判として読むべきではないだろう。ところで恵理菜は、子ども時代の傷から立ち直ろうとしている。。彼女は自ら子を産み、育てる。諸々の歪みを少しずつ乗り越えるヒロインたち、その遺伝子を継いで生まれる子は、この物語に残された希望であり、男性不在の虚しさから抜け出し得る希望でもあると僕は思う。