母と亡父の往復書簡、その文体と「打ち言葉」

 実家に帰り、母と亡き父の残っている手紙を母が出してきて何枚か拝読した。「この手紙がつくのは三日頃だろうから、僕はまだ山にいるわけだ。信州の山は夜は冬みたいだそうです。」「航空券は早めに取ってください(君は少しのんびりだから)」などという文が印象に残った。ここがとは言い難いが、やはり現代とは文体が違う。文学の匂いを感じるのは、私の文学のイメージが昭和に書かれたものによって形成されているからだろう。また知り合いに言及するのに「M子さん」だとか「Y氏」などと記していることが印象に残った。手紙というものの、秘密保持能力への(無意識の?)疑い、だろうか? ところでこの「M子さん」というのは父親の元カノらしいのだが、偶然母親と同じ会社に勤めることとなり、プライベートのことで父親が母親の会社に電話をかけたときにM子さんが出たことで、母親と父親が付き合っているということが明らかになってしまったらしい。電話機の貴重な時代の美しいエピソード。

 しかし、手紙を書くという習慣がなくなり、メールを経て、LINEに至り、現実的に誰か一人に向けてまとまった文章を書く、そのための文体は、失われつつあるのではないだろうか。私は文体の概念が不得手で、どうにも掴み所のないものとして感じられるのではあるが、今、このような文体で文章を書く人はいないと、そう思わずにはいられない。(一方で近頃、「往復書簡」と名の付いた書籍が出版されていたことを思い出す。消えつつある文体の再現、なのだろうか。手に取っていないのでわからない。)

 メールを経てリアルタイム化が進み、LINEの文体は文体には違いないのだろうが、口語を超えて口語的な書き言葉であるようだ。事実、LINE上の打ち込まれた言葉によるコミュニケーションから生まれたらしい口語もある。LINEの書き言葉は、口語に先んじている。またあるいは、それは、書き言葉ではなく、「打ち言葉」とでも呼ばれるべきようなものに変容しているのかもしれない。