Project Nyx『上海異人娼館』

 Project Nyx「上海異人娼館」原作:寺山修司 構成・美術:宇野亜喜良 演出:金守珍
2012.11.1〜11.11 公式ウェブサイト

Project Nyx「上海異人娼館」を観てきましたので感想文。シアターイーストという劇場は客席数三百弱のいわゆる小劇場で、そもそも演劇をあまり見ない私がこういう場所で演劇を見るのは初めてだったのですが、衝撃的でした。役者近い。小劇場おもしろい。はまりそう。懐が冷えますね。

寺山修司の同名の映画作品を下敷きとし、「美女劇」と銘打ったこの劇は、(彼女たちが美女であるか否かという評価はしないが)、「どこでもありません」「誰でもありません、まだ。これから、なるんです」という言葉、上海の映像と打ち寄せる波の壮大な音から始まり、そして幕が開けば、妖艶、華美、「夢のような」、娼館「春桃楼」の娼婦たちの踊りと音楽が展開される。その扇情的な演技に、私は一瞬にして上海の夜の世界に引き込まれてしまった。「本物のない街」「欲望の街」上海である。

舞台である1920年代の上海は既に国際都市であり、中国最大の都市であり、「「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した。」「民族資本家(浙江財閥など)の台頭をもたらし、階級闘争的な労働運動が盛んになっていた。」(wikipediaより)。こうした背景が、『上海異人娼館』にも描かれている。また、寺山「上海異人娼館」に同氏の戯曲「中国の不思議な役人」が組み入れられたことで、『上海異人娼館』は、現代の東アジア情勢にまで及ぶ。さらに、アンデルセン「夜鳴鶯」まで挿入されているのである。「夜鳴鶯」は、近代から現代にまで及ぶ日本、あるいは社会すべてに向けられた批判となるだろう。

引用と挿入のパッチワークの結果として、混沌とした物語になっていることは否めない。「上海異人娼館」の官能的で感覚的な世界観の中に、「夜鳴鶯」「中国の不思議な役人」の政治的なメッセージが重なる。しかし、この混沌こそが、上海であり、現代につながるものであるのだ。私はそう感じた。

「夜鳴鶯」「中国の不思議な役人」は政治的、男性的(という言葉はあまり使いたくないのだが)な部分であり、「上海異人娼館」は感覚的、女性的な部分である、と単純に分けてしまうこともできるだろう。。

劇中に挿入された「夜鳴鶯」においては、夜鳴鶯を愛した中国の皇帝は、日本から貰った機械仕掛の夜鳴鶯に心を奪われ、自然の夜鳴鶯を追い出してしまい、病死する。そして頭の中に夜鳴鶯を持っていた少女が生き残る。アンデルセン「夜鳴鶯」からの書き換えからもわかるように、極めてメッセージ性の高い挿話となっている。

中国の不思議な役人」の役人は、何度殺されても死なないという設定の与えられたキャラクターである。彼は劇中において、王学に斬られ、革命家たちに切り刻まれる(「五・三〇運動」のイメージか?)。それでも彼は、死ねない。彼は言う。「次はどこで死ぬだろう?」「東シナ海尖閣諸島で?」と。そして彼は、O嬢の書き換えである桜に抱かれることで、死ぬ。本当の愛だけが中国の不思議な役人を殺せるのである。

しかし私にはこうしたメッセージよりもずっと、「上海異人娼館」が響いた。もちろん、「夜鳴鶯」「中国の不思議な役人」がダメだと言うのではない。そうした混沌とした重なりあいの中で、一際輝いているのが「上海異人娼館」の人々なのである。娼婦たちは、受け入れる。そもそも娼婦という存在は、『罪と罰』を挙げるまでもなく、(少なくとも文学において)、「受け入れる」聖母のイメージに近いものである。それは、「拒む」処女性の正反対にあるものだ。劇の最後、「無垢な少女」と称されたO嬢の書き換えである少女・桜が、娼婦として生きるようになったという後日譚が付されるのは意味深い。闘争すること。受け入れて生きること。その両者は対立する言葉であると同時に、共存しうる言葉である。闘争、拒みのはびこる現代で、受け入れる「愛」をも共に持つこと――「上海」は私にその可能性を見せてくれた。