てがみ座『青のはて -銀河鉄道前奏曲-』

てがみ座「青のはて -銀河鉄道前奏曲-」脚本:長田育恵 演出:扇田拓也
2012年11月30日〜12月3日 吉祥寺シアター

12月1日19時〜の公演を観てきました。二時間くらいあったのかな、長かったけれどとても良い時間を過ごせました。一段と冷え込んだ夜でしたが、「青のはて」を観たあとですとその寒さもなんとなく詩的に感じました(笑)。劇場は吉祥寺シアターで、舞台を挟んで客席が向かい合うようになっていて、これは微妙だなと思いました。片方から観るようであれば、演出も、もう少し派手なことをできたのではないかと思ったり。しかし、おかげで舞台が近く、目の前で役者が走り回り、臨場感はとてもありました。演出も不満だったというわけではなくて、とてもステキだったと思います。

1923年、トシの死後に行われた宮沢賢治樺太への旅を題材に、「銀河鉄道の夜」誕生の軌跡をたどるフィクションであるが、事実を下地にしており、宮沢賢治に関する作家論的研究に触れたことのある人間にはより楽しめるだろう。賢治と家・父親、トシの宗教に関する議論や保阪嘉内との訣別など。トシも保阪嘉内もこの劇においては宮沢賢治の見る幻(のようなもの)として登場し、彼を「上方」へと導いていく。そして北の果て、白鳥湖で、賢治は「南十字(サウザンクロス)」へと向かう旅に出発する……物語はこういう筋だ。ただこの劇はそれだけではなくて、2012年の女性二人組が登場し、宮沢賢治の足跡をたどる形で、サハリンへと旅たち、二つの時代の旅は重なる。

2012年のわたしは宮沢賢治に問う。「ほんとうのさいわいってなんですか」。もちろん賢治は答えられない。誰かの幸福を願うことは同時に、誰かの不幸を願うことになる。善い人であればあろうとするほど、この無限のループにはまっていく。事実、彼は生涯、「ほんとうのさいわい」というものが何なのかわからなかったと言えるだろう。「あたしは嫌いです。あなたが。あたしが。」と女は言う。

大学の講義で、ちょうど宮沢賢治を扱っているのだが、案外多くの学生が、「宮沢賢治は嫌い」「読まない」と語った。彼の童話は「押し付けがましい」「善人すぎる」と彼らは言う。なるほど、と思う自分もいる。劇に登場する大野くんと同じだ。偽善っぽさや、人間らしくなさを感じてしまうのである。そういうところに嫌悪感を抱いてしまう人が彼の作品を愛するには、作家論が不可欠であろうとわたしは思う。彼自身もまた、自身の思想に確かな確信など持っていなかった。彼の作品群は、彼自身の葛藤をたどるものでもあるのだ。そしてその葛藤は、決して完璧な「善人」ではない、我々と同じ人間としての賢治を想像させる。

おもしろかったのは宮沢賢治の明るい演じられ方。劇がはじまった最初は「これでいいの?」と思ったが、この宮沢賢治がトシの幻を見た瞬間、「なるほど」と思った。宮沢賢治の旅にわたしは陰鬱なイメージを抱いていたが、しかし、一年後、彼がなぜ旅立ったかを改めて考えると、決してトシの死の影を背負った陰鬱なものではなく、再び歩み出すためのものだったのではないか。劇中終盤、花巻行きのチケットを買った宮沢賢治は、「帰るんじゃないんです。行くんだ」と語る。少なくともこの脚本は、そうした解釈をもって書かれている。

あまりよくわからなかった、というか深く考えなかったのがこの劇の政治的な部分、例えば2012年の二人がサハリンで出会う韓国人、女の感じている日本人としての罪、中国での暴動、などなど。日本人としての罪とかいうものは、大きくすれば人の原罪と同じであろうが、ここらへんについてはあまり考える気がおきない。

宮沢賢治は本当に作家論的解釈のおもしろい作家である。それはまさに、彼が完璧な「善人」ではなく、人間的であることによる。そんなことを思い出させてくれる上演であった。