架空の劇団×渡辺源四郎商店「震災タクシー」

架空の劇団×渡辺源四郎商店「震災タクシー」

劇は常磐線いわき行から始まる。電車はくらもち氏(主人公)をどこにも連れてゆかぬまま停止し、彼はいわきへ向かう人を集めてタクシーに乗りうつる。

ここで電車とタクシーの比較というものを考えてしまう。震災があって、線路の使えなくなった電車は停止した。電車の運転手は規則のこと、決まりきったことしか言わない。しかし、タクシーの運転手は違う。いつもと違う道で、なんとか行ってみましょう、と言うのである。タクシーはここではいわゆる人間らしさの象徴でもあったように思う。日常を日常のまま維持することは電車にもできる。しかし、非日常の中で、日常を作りだせるのは人間だけである。

さて、震災が起きてから、タクシーと共に走り始めたメロスは、何か得体の知れないもののために走り続け、未だ何処にもたどり着かない。

なぜメロスが走っているのだろう? この喜劇を観ながら、ずっと悩んでいた。

タクシーは途中、登場人物の女の子幸子のトイレのために停車する。これもまたトイレの使えなかった電車と対になっていておもしろいが、その時幸子は、みんながトイレに行ってしまった舞台に一人戻ってきて、そして次に戻ってきたくらもちと二人きりになったとき、原発のある方向を指さして、「いままでの場所は、いままでの場所じゃない」と言う。

その後、戻ってきたタクシーに乗る面々と、原発についての会話がなされる。「事故なんて起きない」「事故が起きてたら、もう生きてない」――。しかし我々は、未だに生きている。いままでの場所じゃない場所で、日常を生きている。くらもち氏(主人公)は自宅に帰り着く前、ヘッドライトだけが光る町を通りながら、「ここはどこだ」と、震える。非日常がようやく彼に迫ったのだ。しかし帰り着いて娘に「どうだった?」と尋ねられ、「楽しかった」と彼は答える。不謹慎……実際の震災の直後、大勢の人間がその言葉を使った。非日常を非日常として維持する言葉である。しかし、いつもと違う町の様子に震えながらも、「楽しかった」と言ってみせたくらもち氏に、人間の強さを感じずにはいられない。日常を作り出すのは、人に安心を与えられるのは、人間だけなのである。

くらもち氏は家に帰り着き、しかしメロスが何処にもたどり着かぬまま劇が終わったことで、ようやく、僕なりの答えにたどり着いたように思う。

あの日、走り出したものは、まだ立ち止まらない。立ち止まってはいけない。
「お前、まだ走っていたのか」と、くらもち氏(主人公のことです)がそれに気づいたのは、タクシー行を終え、さらに家族の元へ帰り着いた時である。タクシーはいわきにたどり着き、くらもち氏は家にたどり着いた。それでもなお、メロスだけはまだ、走り続けている。そうして出来上がったのが、この劇なのだろう。

タクシーの面々はいわきで散り散りになった。農家の男は女性にふられ、必ず立ち直ると言った。そんな仕掛けも込められていながら、この劇は喜劇である。その、「必ず立ち直ります」のシーンさえ、客席には笑いが響く。客として僕もまた笑いながら、人間の強さ、非日常の中で日常を生きるということについて考えさせられていた。