台詞にならないもの——ポツドール『夢の城』

 なぜこの劇には台詞がないのであろうか。
 以前にも台詞のない劇というものは存在した。太田省吾の生み出した独特の演出で、彼の沈黙三部作はその代表である。しかし、そこで台詞がないことと、この劇での台詞がないことの意味は、大きく違うように見える。「小町風伝」の台本には、老女の台詞も書かれていた(残っていた)というのは有名な話である。太田省吾の沈黙劇において台詞は、ないとうよりはむしろ、「声として発せられない」ものなのだ。そこには言語化され台詞になりうるものが存在している。ただ、それが声にならない。
 しかし、「夢の城」は、また違っているように見える。そこには、語られるべき台詞、言葉がないように見えるのである。
 「夢の城」においては、台詞はないが、暴力やセックスが、電子ピアノの音色やバットを振る動作が、喘ぎ声や泣き声が表出する。そこに存在しないのは声でも感情の表出でもなく、意味を伝えるための台詞、すなわち言葉のみである。いや、言葉自体はテレビから、意味のある日本語の言葉が発せられ続けている。舞台にないのは、演じられるキャラクターたちの言葉だ。
 そもそも言葉とはどういうものか。ソシュール以後、言葉はシニフィアンシニフィエに分解され、その対応関係が絶対でないことが明らかにされた。言葉に先立つと考えられていた、言葉で指し示すべき対象=モノは、実は言葉がなければ認識できず、よって、存在できないといえる。ラカンはこれに影響を受け、「言葉は現実を語れない」「言葉でしか現実を語れない」といった命題へと至った。言葉は象徴的なものでしかない。象徴的なものは、現実のすべてを語ることはできない。もちろん、脳内に思い描く想像的なものも、言葉は語り尽くせない。
 「欲望とは〈他者〉の欲望である」ともラカンは言う。〈他者〉とは、外部からインストールされるものであるという意味を含めた「言葉」を示す概念だ。自分の望むものを、言語化してしまった瞬間、それは自分自身の望むものとは違った欲望になってしまうのである。
 これらを踏まえ「夢の城」を見てみると、そこで表出されているものは「言葉にならない」ものであることがわかる。言葉は、代替物である。セックスを求めているがそれがないときには「セックスがしたい」と言葉にすればいい。しかし、「夢の城」の空間には、言葉である欲望は存在しない。彼らは現実を、想像を、言葉にすることを必要としていないのだ。

 終演後、舞台と客席を隔てていたガラス窓に、客席が映し出される。役者が拍手を求めることはない。劇は明確に終わってくれない。客たちはためたいがちに拍手を送る。そして、本当に終わりなのか? と何度か振り向きつつ、劇場を出る。「夢の城」は、演出した異空間を、回収してくれないのである。客たちは上演を観たあと、今までの日常にすぐには帰れない。「夢の城」の、台詞にならない欲求の容易く表出する空間を、舞台に写しだされた自らの姿を、劇が続いているかのように引きずったまま、劇場を出るのである。
 この劇を観た者の多くにとって、ルームシェアをしている男女が暴力やセックスを日常的に行なっているというのは、決してリアルなものではないだろう。まして言葉がないことなど、現実にはありえない。我々は常に言葉によるコミュニケーション、交渉を強いられている。しかし、舞台の上にいたのは客席のお前らだ、と「夢の城」は突きつけてくる。
 あの空間は、リアルではない。しかしあるいは、リアル以上に、リアルに肉薄した空間だったのではないか。
 日の丸に見守られアイドルの写真が貼られグロテスクに装飾された空間、そこにあるのは「ピアノ」「野球」といった象徴的な「将来の夢」や言語による交渉を素通りした暴力、セックス、食事である。これらは、我々の頭の中にあるもの、中にしかないものであるのだ。それらは、言葉にされることによって〈他者〉のものとなってしまう。そうしたものを、言語以外の方法で象徴してみせたのが、あの空間なのではないか。
 多くの欠乏が満たされた社会にあることで、欲望に明確な形がなくなり、「何かを切実に欲しがる心」に憧れる、「欲望を持ちたい欲望」といったものが表出すると、ラカン精神分析を踏まえ斎藤環は言う。日本の若者の抱える虚無感……三浦大輔の書いたというそれは、ラカンによって説明することができるものなのである。
 「夢の城」が「若者の今」をステレオタイプに描いている、といった批判は不可能である。あの空間にあるのはステレオタイプに回収してはいけないとされる多様な現実ではなく、人間の根源的な部分の象徴なのだから。

 

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観た直後のメモ

 

ポツドール「夢の城-Castle of Dreams」作・演出 三浦大輔
2012年11月15日(木)~11月25日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト 主催:FESTIVAL/TOKYO

 

過激な描写という前情報しかなかったのだが、確かに過激といえば過激だが、わたしには過激というほど刺激的には感じられなくて、むしろ優しい、人間的な暖かさを感じ、落ち着くような気さえした。彼らが裸であったり裸に近かったりするからだろうか? 体温のようなものを感じたのである。

舞台は終始、男女数人が共同生活する汚い部屋で、最初の一幕とラストには客席との間に窓ガラスが置かれる。

部屋で繰り広げられるのはただもう暴力とセックス、排泄、嘔吐である。放り投げられる下着、枕、こぼれる飲食物。敷きっぱなしの布団、グロテスクに飾り付けられた壁。天井には日本の国旗――。繰り返される演技に感じたのは、「あきらめ」である。「どうでもいい感覚」というのも近いかもしれない。彼らは他人の行動を基本的に気にしない。ただ、自分への暴力となったときにはやりかえすが、他のたいていのことは、気にしながらも、文句を言ったりはしない。この劇は無言劇である。この劇で彼らが発するのは生理的な声だけだ。さてこの、自分の我慢できる限り他人に干渉しないというのは、実に日本的ではあるまいか。

日本の東京であることを強く提示する劇である。舞台は「Tokyo, Japan」と明示される。天井には日の丸。テレビからは一度君が代が流れる。右政治的な何かを感じるべきところではないだろう。単に、日本ですよ、といったところだ。この演劇と日本については、パンフレットに寄せられた岩城京子氏の文章がなかなか良くて(上から目線!)、ジジェクを引いて西洋と日本における「死の受容のプロセス」の在り方の違いを語り、また『終わりなき日常を生きろ』を引き若者たちは「まったりと生きる試みのなかで「まったりと腐って」いったのだ」と語っている。もちろんこれだけでなく、さらに深く「夢の城」と三浦大輔を論じている。

しかし、この劇は、単純に日本の「腐った」若者の虚無感を描いただけのものではない。いや、三浦大輔はそう語っているのだが、それ以上のものをわたしは感じ取った。この劇には、確かに希望が描かれている。確かに日常は終わらないのであるが、そこには、希望があるのだ。人間に対する希望である。

観劇中、ある妄想にとらわれ、泣きそうになった。一人の男の「野球」と、一人の女の「ピアノ」。パワフルプロ野球をやり続ける彼は、バットを振る動作をしてみせる。別の女の調理するのを見つめてみたりするその女は、食事中、キーボードを弾く。「エリーゼのために」……彼と彼女が少年と少女であった頃をわたしは妄想した。喪われた野球をすることが可能であり、ピアノを習うことが可能であった頃を妄想し、こみあげるものがあった。女のキーボードをBGMに繰り広げられる食事のシーンは本当に衝撃的なまでに感動的である。

さて、「腐った」彼ら彼女らの生活であるが、本当に絶望的なものだろうか。

終盤、キーボードを弾くのとは別のある女が、泣く。ここにあるのは、本当に「抑鬱的な許容」(岩城京子氏が前出の文章で使っている、日本人の受容の仕方)だろうか? 彼女が泣けたことに、僕は希望を感じざるを得ない。現代の日本人の抱える閉塞感、虚無感のようなものは、確かに否定することはできない。しかし、泣くことは諦めではなくむしろ抵抗である、とわたしは信じている。岩城京子氏は自由資本主義経済における最終的な非人間性の「許容」を至るべき(至るはずの)地点であるとしているが(理論的に)、そう簡単に「許容」できないようなところが、彼女や我々、日本人にもあるのではないか?

この劇は、終わり方もすてきだ。最後の一幕には、再びガラス窓が観客と舞台の部屋を分かつ。部屋は明かりが消えている。終幕を告げる明かりが徐々につけられるとき、ガラス窓に、観客が映る。これは、計算されたものだろうか。どちらでもいい。計算であれば見事、偶然なら奇跡だ。舞台にいたのはわたしたちであったのだ。本当に見事な終わり方である。役者が前に出てきて挨拶、なんてことはしない。舞台の上の「日常」は終わらず、また舞台の上にいたのはこれから日常へと戻っていくわたしたちであったのだから――。

・テレビについて。
おもしろい装置である。映し出されるのは「実況パワフルプロ野球」「アバター」「韓流ドラマ」「ドラゴンボール」「深夜放送」「富士山」「君が代」などなど。「パワプロ」の繰り返される同じようなアナウンスは、喜劇的でありつつもどこか不気味で、物悲しい。
・「夢の城」とは何か。
この劇の正式名称は「夢の城‐Castle of Dreams」である。この「の」「of」であるが、これが問題である。「の」「of」とは曖昧な語だ。「夢の(ような)城」であるかもしれぬし、「夢の(中の)城」であるかもしれない。夢を守る最後の砦、のようなイメージを持てなくもない。