歌詞をどのように論じるか——『Jポップの日本語 歌詞論』

Jポップの日本語―歌詞論

Jポップの日本語―歌詞論

 

 歌詞はどのように語るべきなのだろうか?
 通常、Jポップについて語ったものは「音楽批評」と呼ばれることになる。音楽批評の領域にはCDにつくライナーノーツや音楽誌に載るレビューなどがあるが、さらにそれらは音楽史音楽学的な知識を基にした曲の解釈などのある程度客観的な批評と、印象批評と呼ばれる、批評主体の主観が強く出るタイプの批評に分けられるだろう。この批評の二つのタイプというのは、音楽だけでなく文芸批評や映画批評においても通用する分類であるが、わたしの見た限り特に音楽批評においては、そもそも音楽というものを文章化することが非常に難しいために、印象批評に傾きがちである。

 さてこの本はというと、「歌詞を曲から切り離して分析すること」を目指しているということで、文学的なアプローチをするのかと思いきや、案外主観的な部分も多く、客観的で理論的であるべきはずの「論」としては正直危うい。手法としては文学における作品論よりは作家論に近い部分もあり、しかし単なる「謎解き」のようなものになってしまっていたりと、優れた文章ではない、というのは論と呼ばれるものを読み慣れた方なら序章からわかると思う。
 歌詞のみを取り出して論じる、という試みは、なかなかおもしろいものだったと思います。歌詞を論じることなら、音楽的知識がほとんどなくても容易に可能なので、より多くの人間(特に文学界隈等)がJポップを語れるようになる、というのがありますよね。しかし論の内容にけっこう問題があるように思えて。まず作家論にしては根拠が乏しい。例えば本書においてはシングルを時代順に並べて作詞家の心情の変化を追う、といったことを何度かやっているが、ある程度妥当であるように感じる部分もあるものの、アルバム曲などの無視してる歌詞がやはり気になる。歌詞を作家論で読むというのはある程度有効であるように思う。特にシンガーソングライターや、アーティスト的な作詞家を論じるなら、むしろ作家論無しでは大したこと言えないのではないだろうか。しかし、本気で作家論的に論じるのであればさらに根拠を詰め、つっこまれる場所を減らしていかなければならないだろう……とプロのライターにこういうことを言うのはちょっとアレですね。
 実際、これは鋭い、という点もいくつもありました。例えばGLAYの「焦燥感」、ゆずの「ゆっくり」といったキーワードはなるほどと思いました。しかしそれ主観だよね? と感じてしまう書き方をしていることも多い。例えば椎名林檎。この見崎鉄という方はおそらく椎名林檎のことを個人的に好いていないのでしょうが、彼女の歌詞や歌のタイトルについて「俳句の「取り合わせ」」「シュルレアリスム」というなかなか妥当な言葉を持ってきているのに、結論が「たんに理解不能なだけである。」だからすごい。彼女の作詞はまさに見崎氏の言う「取り合わせ」「シュルレアリスム」的で、語句の持つイメージと聞くもの(歌詞を読む者)の想像力に依存して世界観を構成している芸術である、という結論に、わたしは至ってしまうのだが、なぜ彼は「これはただの「取り合わせ」で「シュルレアリスム」的。理解不能で高尚なわけではない。」という、ネガティブな方向に向かってしまうのか……。
 後記で「人物論と作品論を折衷した妥協的な記述になってしまった面があることは否めない。」などと言い訳しているのも気に食わないですよね。本書では「人物論と作品論」はものすごく中途半端な形でくっついてしまっていて論としての幼稚さをかもしだしてしまっているし、そもそも最初からそう書けばまだ読みやすいのに。

 ここから本書を離れ、わたしがどのように歌詞論を展開するか? ですが、メロディを無視すると決めてかかる必要もない。見崎氏は、「歌の言葉はメロディのイメージに支配され」ている、という状況から抜け出すために歌詞のみを取り出したわけであるが、JポップをJポップとして論じるというなら、このメロディのイメージというものをもやはり考慮にいれるべきであるように思う。歌詞と声・歌といった「メロディ」の要素についてはウェブ上で公開されている増田聡氏の文章「歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて」にとても詳しく書いてあって僕はほとんどそれを鵜呑みにしています。この文章は歌詞を考えようという方にとても役に立つ文章なので、参考に読めばいいと思います。ウェブ上で読めるなんてありがたい話です。
実際見崎氏も、例えばゆずについてのくだりでは曲のテンポが速いことに触れてしまっている。徹底できないのであれば、最初から「歌詞のみ」と言ってしまうべきではない。そもそも歌詞というものは、メロディに載せられているからこそ歌詞たりえるものである。「歌われる歌詞は歌詞自体とその言語行為、および声の質との関係の中で評価されるのだから。ゆえに、歌詞の意味や質をそれだけで評価することは可能であっても、どこか見当はずれな感は否めない。」と前出の文章で増田氏は述べている。世の歌詞を書かれた詩と同じように読むと、「愛してる」「君に会いたい」なんて言葉はあまりに陳腐だ。それらの言葉を、歌い手が情緒たっぷりに、切なげに情熱的に歌うからこそ歌詞は意味を持つのだ。見崎氏の試みは、増田氏の言うように「可能」ではあったが、「見当はずれ」とは言わないまでも、どうしても論に多少の甘さが露呈してしまうものとなってしまった。音楽学でなく文学的なアプローチをしたいのであれば、歌詞「のみ」とは言わず歌詞を中心に、その他の要素を初めから切り捨ててしまうことなく総合的に論じていくべきであるように思う。