村上春樹「バースデイ・ガール」について 国語科の観点も少し

バースデイ・ガール

バースデイ・ガール

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本
 

 先日、教職課程の講義中に行われた模擬授業において、村上春樹の「バースデイ・ガール」を扱った学生がいた(あらすじなどはwikipediaなどを参照してほしい)。村上春樹編・訳による短編小説アンソロジー『バースデイ・ストーリーズ』に収録されている書き下ろし短編小説「バースデイ・ガール」は、中学三年生向けの教科書に採用されているのである。この模擬授業において、生徒に対する中心的な問いに設定されたのは、「あなただったら何を願うか」「彼女の願いごとはどんなことだったのか」「彼女はそれを願ったことを後悔しているのかどうか」である。「あなただったら何を願うか」は置いておくとして、模擬授業を受ける学生たちは、前者に対しては「死ぬときに幸せと思えますように」「結婚できますように」といった解答をする。また、インターネットで「バースデイ・ガール」について検索してみると、「http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1371482858」「http://www.casphy.com/bbs/test/read.cgi/nationallang/1223303391/l50 (こっちの方がいろいろな意見がありおもしろい)」といった議論が出てくる。「願いごとは何か」という問いが、多様な解答が期待でき、生徒間の議論などを促す効果も期待できる、優れた問いであることが伺える。これらの解答には誤読によるものであったりテクストから読み取れる論理的根拠がないものであったりもするのだが、しかし絶対的に否定する根拠がすべてについてあるわけでもなく、また、願いごとが空白であって明記されていないというのがこのテクストの中心となるところでもあって、間違ってるよ、と目くじら立てて言うことではないのかもしれない。この問いにおいては、一つの答えにたどり着くことではなく、(できれば論理的に)考えることが重要なのである。

 佐野正俊(2010)は、授業におけるこうした問いの立て方に肯定的であると言える。本作の中心がこの書かれていない余白にあることは明らかであり、また生徒たちの多様な意見を引き出すことにもつながり、決して悪い問いではない、というのは私の思うところでもある。しかし可児洋介(2012)は、両氏の教材感に疑義を投げかける。「願い」は明らかであると言うのである。彼は「彼女」が「老人」にペースを乱され、また「老人」の台詞を頭の中で何度も反復していることに注目し、「「彼女」は老人に自らの欲望を先取りして与えられているかのような錯覚に半ば陥りながら、先刻の「老人」の台詞を口に出して反復したに相違ないのである。すなわち「私の人生が実りのある豊かなものであるように。なにものもそこに暗い影を落とすことのないように」と。」と、「願い」を特定してみせる。確かに、仮に「願い」が特定可能であるとするならば、これ以外にはないだろう。本文中に願いのような形で語られているのはこの「人生が実りのある豊かなものであるように。なにものもそこに暗い影を落とすことのないように」しかない。根拠は、彼女が老人の台詞を頭の中で何度か反復しているということだけであり、空白として存在している「願い」を断定することはできないのは事実である。しかし、彼女の願いが、「人生が実りのある豊かなものであるように。なにものもそこに暗い影を落とすことのないように」でなかったとしても、そういったこと、つまり、子どもが二人いて、大型犬を飼い、ドイツ車に乗って、週に二回女友達とテニスをするような人生、平穏で中流上位な人生が、今のところ「願いごとが実際にかなった」と言える、そういう願いごとであったことは確かだろう。私個人の言葉で表せば、「平穏な人生」、これを彼女は願ったということになる。

 しかしテクストを読めば、彼女は、二十歳の誕生日に願ったことについて後悔している、あるいは後悔のようなネガティブな感情を抱いていると、ほぼ確実に言うことができる。私が模擬授業の中で最も気になったのはこの点である。多くの者が、「後悔していない」、あるいは「どちらとも言えない」と答えたのだ。模擬授業はここで終わったので、それらの解答について文句がつけられることもなかったのだが、しかしこれでは、この小説を読んだことにはならないのではないか? この小説のキモはむしろ、「今は後悔している」ことの先にあるのではないか、と私は考えるのである。生徒の思考を重視するといっても、せめてここまでは論理的に読ませ納得させなければ、さすがにひどすぎるだろう。

 教育学部所属の文学研究者である石原千秋は、現状の国語教育はイデオロギー教育と化している、と批判している(『国語教科書の思想』)。国語においても道徳科目と同じように、「道徳的」な読み方、「道徳的」な解答が正解とされるというのだ。三年程前までは高校で国語の授業を受けていたのだが、真面目に受けなかったのでまったく覚えていない。しかし中学時代の国語は、確かに「道徳的」な解答ばかり要求されていた気がする。

 それ自体が、つまり、「道徳的」な読みをすることが悪いわけではもちろんない。「非道徳的」な読みが許容されるのと同じくらい、「道徳的」な読みも許容されるべきである。しかし、「道徳的」な国語教育に晒されてきた我々は、どうしても、教材を「道徳的」に読んでしまう。その時、物語は基本的にポジティブなものでなければならない。そこから引き出される「教訓」は建設的で「正しい」ものでなければならない。おそらくこうしたバイアスが、読みを単純にし、「バースデイ・ガール」の読解を歪ませるのである。

 「バースデイ・ガール」本文中の、「ぼく」の二つ目の問い、「君はそれを願いごととして選んだことを後悔していないか?」に濁して答える「彼女」の表情に注目してほしい。その時の彼女は「奥行きのない目をぼくに向けている。ひからびたほほえみの影がその口もとに浮かんでいる。それは僕にひっそりとした諦めのようなものを感じさせる。」と描写される。明らかにネガティブな表情をして、彼女は「後悔していないか」という問いに、現状を語るのである。その現状とは、「それほど悪くなさそうだけど。」と「ぼく」に評される、そして今のところ願いごとがかなっていると言うことのできる現状である。それを彼女はネガティブな表情で語るのである。そして、イエスやノーでは答えない。これは後悔か、それに類するネガティブな感情を願いごとがかなっていると見ることのできる現状に対して抱いていると見て間違いないだろう。ここを、ポジティブなバイアスによって無視してしまうのは、誤りであると言わざるを得ない。

 ここから読みを進めるために、「人間というのは、何を望んだところで、どこまでいったところで、自分以外にはなれないものなのね」という「彼女」の台詞と、これを「ぼく」が茶化していることに注目してみたい。彼女の発言に、「「そういうステッカーも悪くないな」とぼくは言う。「『人間というのは、どこまでいっても自分以外にはなれないものだ。』」」という文が続く。この「ぼく」の発言の後、「彼女」は「声をあげて楽しそうに笑」い、「ひからびたほほえみの影はどこかにふっと消えてしまう」のだ。そしてその後「彼女」はぼ「ぼく」にあなたなら何を願ったか、を問い、それに対して僕は「二十歳の誕生日からは遠く離れすぎている。」ために、「何も思いつかない」と答える。そして「彼女」は、「率直な視線」で彼を見つめながら、「あなたはきっともう願ってしまったのよ。」と言う。

 この茶化しを、可児洋介(2012)は「老人の物語」の拒否(デタッチメント)と読む。「老人」による「願い」の強要そのものを、いわば麻原彰晃的な「邪悪」なものとして、「ぼく」は拒否しているというのである。詳しくは氏の論文を参照していただきたいのだが、これも説得力のある論である。しかし私は、この茶化しは、「人間は変われない」という彼女に、「君は変わったじゃないか」と、そう気づかせるための茶化しだったのではないかと考える。

 願いごとについて、「叶っている(イエスであるが、人生は先が長く、なりゆきを見届けていないからノーとも言える)」が、「後悔している」というのが私の読みであった。つまり、彼女は二十歳の誕生日に願ったことを、今は願っていないのである。これは変化である。そして「ぼく」も、「二十歳の誕生日からは遠く離れすぎている。」と、「人間というのは、どこまでいっても自分以外にはなれないものだ。」というテーゼとは明らかに矛盾する発言をしている。この発言を彼も彼女も何の疑念も持たずに言ってしまうことから、「自分以外にはなれない」というテーゼは、僕に茶化されたところで否定され、「楽しそうな笑い」となったと、私は読むのである。彼女は二十歳の時に願った、「平穏な人生」という願いと、それが叶ったかのような現状に、ネガティブな感情を抱いている。そして、「私は変われない」といった諦め方をしている。それを僕に茶化されたことで、彼女は自分が二十歳の頃から変わっていることに気づき、変われることに気づいた。「老人の物語」の拒否という可児洋介の論に乗っかれば、老人の物語にとらわれているように感じていた彼女であったが、そうではないことを僕によって気付かされた。

 では、彼女の最後の台詞、「あなたはきっともう願ってしまったのよ。」は何であろう? ここからかなり厳しい論になるが、しかし他の論者もこの台詞についてそれほど説得力のある読みができているわけではないことを言い訳として述べておく。

 可児洋介の論をふまえ、「願うこと」は、物語にとらわれることであると考えてみる。それは、「平穏な人生」といったようなことを願ってしまったために平穏な変化のない生活に囚われた「彼女」のように、人を物語という名の枠に閉じ込め、自分はそこから逃れられず、変わることができない、と思わせるものである。

 「ぼく」によって、老人の物語の呪縛から解き放たれた「彼女」の「率直な視線」は、何を捉えたのであろうか。それはおそらく「ぼく」の空虚さである。彼女を呪縛から解き放ったのは、「『人間というのは、どこまでいっても自分以外にはなれないものだ。』」であるが、これは「ステッカー」として悪くない言葉として提示されるものであり、彼女が「ぼく」に対して言った、「「そういうステッカーがあるといいわね。」と彼女は言う。/「『バンパーはへこむためにある。』」」という部分に対応している。『人間というのは、どこまでいっても自分以外にはなれないものだ。』が、彼女を茶化すものであったとすれば、この『バンパーはへこむためにある。』というテーゼが、「ぼく」を茶化す機能を持つものである、と読むことができなくもない。しかし彼女のこの発言に対しては「ぼく」は、「彼女の口もとを見ている。」と、反応を示していない。

 彼女が「あなたはきっともう願ってしまったのよ。」と言う時、「ぼく」と「彼女」の立場は逆転している。「ぼく」の茶化しによって彼女の表情から「ひからびたほほえみの影」が消えた時点で、「物語」を指摘する側にいた「ぼく」は、今度は、彼自身が囚われている「物語」を指摘される側に回ったのである。

 そのように考える時、「ぼく」がとらわれているのは、「諦観」という名の物語であろう。「バンパーのへこみ」は、生活にへこみがあることの隠喩であるとは可児洋介の論でも述べられているとおりであり、生活に落ちる「暗い影」である。この「暗い影」を、「ぼく」は「そういうものだ」、もっと言えば「やれやれ」と諦めてしまえる。それを、「彼女」は「ステッカーがあるといいわね」と茶化すが、彼の物語は揺るがない。そして「ぼく」は逆に彼女を茶化し返すことで、彼女の物語を揺るがし、結果的に彼女を物語から解き放った。物語から解き放たれた彼女は、人間は変わることができると信じることができる。が、彼女の変化を指摘でき、自身の変化も認識している「ぼく」の「諦観」は、しかし揺るがない。彼自身は、これ以上の変化を諦めてしまっているのだ。彼女は、「あなたはきっともう願ってしまったのよ。」といった言葉で、「ぼく」が物語にとらわれている=願ってしまっていることを指摘するのである。

 さて、「バースデイ・ガール」の読みを進めすぎて国語科の話題から離れてしまったが、言葉になって現れているものを、ネガティブな部分を無視して無理にポジティブに受け取ってしまうと、可児洋介の論はおろか、私の稚拙な読みにさえ至れないだろう。私の読みは笑っちゃうレベルのものではあるが、この程度のテクストに向き合う姿勢は、自分の考えというようなものを持とうとする姿勢は、なんとか養って貰いたいし保っていて欲しいように思う(笑)。

■参考文献
石原千秋(2005)『国語教科書の思想ちくま新書
可児洋介(2012)「村上春樹「バースデイ・ガール」における語りの機能 : 邪悪な「物語」を拒む倫理的責任について」学習院大学人文科学論集21,121-148
佐野正俊(2010)「村上春樹「バースデイ・ガール」の教材研究のために--〈語り〉が生成する「僕」の物語を読む」日本文学59(8),57-65

「バースデイ・ガール」本文は、『伝え合う言葉』(教育出版)によった。