新海誠『言の葉の庭』

言の葉の庭

言の葉の庭

  • 発売日: 2014/11/15
  • メディア: Prime Video
 

 新海誠監督の最新作『言の葉の庭』観てきましたーので行き当たりばったりに感想を。

 簡単にあらすじを説明すると、まああんまり学校に行きたくない少年(友達とかは普通にいる)が雨の日、公園で朝から発泡酒飲んでる27歳(CV.花澤香菜)に恋をする、というもの。

 この27歳はアニメ史上最萌の27歳と言っても過言ではないのではないでしょう。朝っぱらから仕事をサボって公園で発泡酒(金麦とか)を飲んじゃったり、国語教諭で『行人』を読んでたり萬葉集から和歌を引用したり、男の子を家に呼んじゃうなんてガードの甘いところもある、そして精神的に弱い、これはもう文化系男子の九割は落ちちゃうんじゃないでしょうか。背景が緻密にリアルに描かれているために「こんな女いねぇよ!」って最初は思うのですが、なんか萌えすぎて許せちゃう感じでした。

 緻密な風景描写は、もはやフェティシズムの領域だと思います。新海誠は初期の映画から既に風景に異常に執心しておられ、それは田舎であったり都市であったり、どちらにせよ身近に感じられる風景であることが多いのですが、今作でも『秒速五センチメートル』的に都市を描いています。
 『秒速』と共通して、『言の葉の庭』にも「航空障害灯」「信号機」「電車」「カラス」といったモチーフが描かれています。よっぽど好きなんですねという感じですが、僕はこの彼の都市への眼差しが大好きです。加藤幹郎という研究者が『アニメーションの映画学』という本の中の「風景の実存」という論文の中で書いていたことですが、新海誠の映画においてはこうした、本来物語や登場人物たちの背景に過ぎないこれら都市の諸相が、心情の表現になっています。例えば、今作でほぼずっと降り続いている雨の描き方が、悲しげだったりきらきらと輝いていたりして、登場人物たちの心情に寄り添ったりするのです。本作の物語は言ってしまえばありがちな、先生と生徒のメロドラマで、それだけです。もちろんその物語もウェルメイドで感動できるものですが、この映画において見るべきはむしろ、先に挙げたような細部であるような気がします。繰り広げられるメロドラマよりも、その物語と共に展開される都市という背景が、むしろ重視されているように思うのです。
 『言の葉の庭』を他の新海誠作品とくらべて新しいな、という気がするのは、しかしキャラクターの部分な気もします。例えば前作『星を追う子ども』で、おそらくアスナに煙を吸わせないように庭で煙草を吸うアスナの母親は、非常にリアリティがあると僕は感じます。そういった細かい描写がキャラクターをオンリーワンなものにし、人間に近づけていくわけです。そして、『言の葉の庭』の27歳雪野先生の描き込みは本当に細かい。そして、彼女の足のサイズを、靴職人志望の主人公が測るシーン。ここです。
 今までの新海誠作品では、ここまで登場人物の身体に密着したことはなかったのではないでしょうか。見返してみないとわかりませんが()、彼はとにかく風景にばかり拘っています。それは一種のフェティシズムなのだろうと僕は思うのですが、しかし今作では風景に加え、足に対するフェティシズムを表してきたなと。別に彼が足フェチだと言うつもりはないのですが、足の計測のシーンは本当にエロい。雪野先生まわりの細部の描写の細かさと、この足の計測シーンを丁寧に描いてきた点に、新海誠が人間の身体にもその眼差しを向け始めた兆候を僕は見るわけです。
 一般的に、アニメはキャラクターで客を集めようとします。それはキャラクター商品で儲けるという商業的な理由があってのことで、それでアニメーション映画でもキャラクターありきの物語が非常に多いわけです。ナウシカとか、けいおん!とか? しかし新海誠はキャラクターにはほとんど拘ってこなかったように思います。「星を追う子ども」はジブリの真似事をしてみた作品なのでけっこうアスナありきではありますが、『秒速』や今作のような物語は、言ってしまえば誰にでも起こり得るものです。こうした物語において登場人物の細部を描くことは、ただただ自然主義的リアリズムに他ならない。つまり、キャラクターをキャラクターとして確立させ売るためではなく、人間としてのリアリティを増すために、今作ではキャラクターが細かく描写されている。
 誰にでも起こり得る物語と、緻密で自然主義的にリアルな風景描写に加え、「言の葉の庭」では、自然主義的にリアルな人間を描こうとしている。最初に書いた「こんな女いねぇよ!」に矛盾する結論にたどり着きましたが(笑うところ!)、でも、彼女がちょっと萌え萌えなだけで、ずっと観ていると違和感なく観ていられるくらいには彼女がリアリティを帯び始めるというのも事実です。ここまでの緻密な描写がなければおそらく彼女は萌え萌えなキャラクターとして消費されていたはずですが、それを許さないというのが、今作が他のキャラクター中心のアニメとは別の文脈に存在していることの証明になるのではないでしょうか?