ポーリーヌ・レアージュ『完訳 Oの物語』高遠弘美訳

完訳Oの物語

完訳Oの物語

 

 澁澤龍彦訳のファンたちによる本書へのレビューを見ていると、彼らがいかに、『O嬢の物語』の幻想を消費していたかが見えてくる。その幻想は時に、この高遠弘美による『完訳』の、語学上の正しささえ覆い隠している。いや、テクストというものが、読者が読むその瞬間にのみ成立するものなのだというテクスト論的な思想に従えば、多かれ少なかれ、テクストには必ず幻想が付きまとう。

 澁澤訳の好きだった人間には『完訳 Oの物語』は受け入れがたいのかもしれないが、澁澤の文章にそれほど愛着のない私にはむしろこちらの方が読みやすかったし、語り手とO自身の距離感のように、決して物語や作中人物の心情に立ち入りすぎない姿勢には好感がモテる。それらの翻訳態度は後書きでも説明されているのだが、納得できるものであった。

 あらゆるページにエロティックな言葉が散りばめられている。それに心酔していくのもおもしろい読み方だし、エロティックなものの虚しさを感じるのも、おもしろかった(賢者タイム?)。賢者タイム、といえば本書に収められている「第二部」は、まさに賢者タイム的である。「第一部」の、官能的なエロティシズムの極致のごとき物語が、「二部」では、処理すべきものとしての性欲や資本といった現実に回収されてしまう。「二部」は必要ない、と言うものもいる。一部の完成されたエロティシズムの世界を崩している、と。しかし、それはもちろんあえて崩されている。夢としての自己を自ら解体していくテクストに逆らって、夢のなかに居続けることは、本作をポルノとして消費することとほとんど差のないことのように私には思われるが。

 テクストに裏切られ続けながらも寄り添うことを恋愛、テクストを自分好みに読んでいくことを自由と呼んでもいいかもしれない。

ただ、彼らの言葉のなかで、一つ、あるいは二つの言葉がどうもしっくりこない。それは恋愛と自由という言葉である。いうまでもなく、それらはまったく正反対なのだ。
――ジャン・ポーランによる序文「奴隷状態における幸福」より