ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ゴミ、都市そして死』

 舞台は「月面上、というのも月は地球のとりわけ都市部と同じく人の住めないところだから。」。人の住めないところたる都市で生きる娼婦たちの物語。

俺は荷物をまとめて街へ出て行く。この街はこれまでだって俺の周りのものを飲み込んできたが、今度は俺を飲み込むんだ。

人生は自由な選択の余地など与えちゃくれません。街は捧げ物を求めているのですよ。

こうして街は和解の身振りによって我が身を護るのだ。全てが同類になり、均等にならされる。

 人の主体性を奪っていく都市。戯曲は、都市に対する絶望感と悪態に満ちている。そしてその絶望感は、貧乏な娼婦たちにも、それらを買っていく金のある者たちにも平等に分配されている。この物語はあるいは「反資本主義」と名付けられるものなのかもしれない。資本主義的都市の中で軽やかに「なんとなく」生きていくことを唱える思想の流行る昨今、彼女ら(彼ら)の、絶望に真正面からぶつかっていく姿勢は重たく、またそれらを飾らず汚いままに描き出すこの戯曲は、不快である。この不快さが、多くの批判を招いたのも事実だ。しかしそれは、軽やかに「なんとなく」生きていくことが、単に逃げているだけであることを、綺羅びやかな装飾の一枚向こう側では都市が暗い口を開いていることを、思い出させてくれる。

私はもう、私の呼吸を止めてしまいそうな、でも実際に止めてはくれない何かに耐えてゆく理由がわからなくなった。私は死者にくちづけし、すでに朽ちた者の味を味わう。腐敗が私には愛唱歌集となり、吐き気が魅惑の味わいとなる。でも底辺の生活に逆らう歌を歌えば、私は生きた猿の脳みそを食らうあばずれになってしまう。けれどそうしなければ私自身が餌食になる。要求されるように生きなければ、完全に破壊し、果てしない奈落に沈んでしまう。私はもうこんな人生を生きたくないわ、神様。

 戯曲の中で娼婦はこのように言う。都市の中で軽やかに生きるということは、この「何か」を見えないふりをする、あるいは忘れてしまうことに他ならないだろう。しかし「何か」は確実に我々の側にあって、我々を蝕み続けている。
ところでこの戯曲にあるのは都市の中で、都市と真っ向からぶつかっていく者たちの醜く悲劇的な姿だけではない。男/女、富者/貧者、そういった多くの対立と脱構築もまた描かれている。生きづらさの原因は、決して一箇所にあるわけではないのだと感じさせられる。