「Our Planet」と「My Planet」/演劇を記録すること――ままごと『わたしの星』

8月25日、観て来ました。高校生演劇とか、そういうのを抜きにして大変良かった(巧みな戯曲だったし、高校生というネームバリューのいらない俳優ばかりだった)。感想を書いておきます。

1,「Our Planet」と「My Planet」

 『わたしの星』の舞台は近未来の地球で、温暖化が進んだのか、太陽が肥大化しているのかはわからないが、火星への移住が進んでいる。日本、と呼んでいいのかはわからないが、登場人物たちの名前は日本のもので、また日本の地名も出てくる。そのような世界のある地球の学校で、十名の高校生たち(その高校の全校生徒である)が、文化祭に向け「わたしの星」と題されたパフォーマンスの練習をしよう、という一日を描いた芝居であった。その日、翌日に迫った転校(火星への移住)を言い出すことのできなかった少女スピカを中心に、物語は展開される。
 『わが星』は『Our Planet』と翻訳されている(ワイルダー『Our Town』が『わが町』と翻訳されているように)。それに対して『わたしの星』は『My Planet』だ。このように翻訳を示せば、「わが」と「わたしの」のニュアンスの違いが明確になるように思う。『わが星』は、人類にとってふるさとでありゆりかごである絶対的な固有名詞・地球と月の関係をモチーフにしていた。対して『わたしの星』では、「スピカ」という、宇宙にいくつも存在する連星系のうちのある一つがモチーフとされている。連星系とは二つ以上の恒星からなるもので、「スピカ」は二つの、比較的明るい星と暗い星からなる連星系である(Wikipediaによれば実際には五重の連星系であるらしいが、二つの星からなる連星として扱われることが多い。例えば柳沼行ふたつのスピカ」)。地球と月のように、「スピカ」を構成する二つの星として設定されていたのが『わたしの星』のスピカとナナホという少女であった(スピカは元々「穂先」を意味する)。あらゆる面で自分は劣っている、とスピカに対してナナホは劣等感を抱いていた。転入生であるヒカリに見せるために行われた作中のパフォーマンス「わたしの星」においても、踊るときにはスピカは主に大きい円を描いて、ナナホは主に小さな円を描いていた。
 地球と月の関係と同じように、「スピカ」もまた、それぞれの星が存在しなければそのようには存在できない連星系である。そういった意味では、両者に違いはない。しかし、そのように唯一無二の関係を築いているのと同時に、作中の「スピカ」、スピカとナナホの関係には交換可能性が与えられていた。転校を翌日に控えたスピカの代替として、転入してくる少女・ヒカリが登場するのだ。
 また『わたしの星』においては、地球も決して唯一無二の存在ではない。火星にも地球と同じ地名(ヒカリは火星の「所沢」から来た)という話を聞いた少女たちは、いつか火星が「地球」と呼ばれる日が来るのではないか、もしかしたら今の地球も、昔は違う名で呼ばれていたのではないか、といった想像をする。
 スピカとナナホの関係も、地球と月との関係同様、絶対的で、唯一無二のものであることには違いない。スピカとナナホの関係は、スピカとナナホでしか作り得なかったものである。しかし、二人は幸いにも、地球のような宿命を背負ってはいない。彼女たちは無数の星々の一つであり、唯一無二でありながら、交換可能な存在である。
 転校していったスピカの代わりに、ヒカリ(「スピカ」のように名付けられていない、恒星一般を連想させる名だ)がパフォーマンスにおける彼女の役を引き継ぐことになる。スピカからダンスの誤りを指摘されるなどもしていたナナホは、今度はヒカリにダンスを教える立場となる。本番では、やはり大きな円を描くのはヒカリであるかもしれないが、しかし、作中のパフォーマンス「わたしの星」において描く円の大小が入れ替わる場面のあったように、その関係が変化し得る、他の誰とも関係し得る、といったことが重要であるように思う。
 「スピカ」は一つしかないが、同時に、それは無数に存在する恒星の一つである。そして、そのようなスピカの在り方は、わたしたちの在り方に近い。それに対して「わが星」地球は一つしかないし、交換不可能である――いや、『わたしの星』の世界においては、SF的想像力によって、地球さえも交換可能なものとして描かれていた。高校生たちが地球と火星、どちらに住むかを選択する・させられるように、『わたしの星』において地球は交換可能な「わたし」の交換可能な「星」だ。『わが星』がある唯一の歴史を描いたのに対して、『わたしの星』はそのような、交換可能なわたしの歴史を描いている。『わたしの星』の世界には、「わが星」と呼ばれ得るような絶対的な星はもう存在しないのだ。

2,演劇を記録すること

 ここ最近演劇を観て来て、多くの現代演劇が、過ぎ去ること、消えていくこと、あるいは過ぎ去り消えてしまったこと、を主題にしているように感じている。そしてそれが演劇の「生まれては消えるという宿命」(「ままごとの新聞」第10号)から必然的に選択される主題なのだと、直感的にだが考えている。
 ままごと『わたしの星』もまたこの演劇の宿命を主題としていたように思う。
 当日も配られた「ままごとの新聞」第10号には「なぜ柴幸男は戯曲を無料公開したのか」と題された文章が載せられている。そこに、以下のような一文がある。

 ただ一つ言えることは、生まれては消えるという宿命を背負った演劇の中で唯一、場所と時間を超えることができるのが「戯曲」だと僕は考えています。

 高校生たちが文化祭で披露しようとしているのは、「時報」に合わせたラップや踊りのある、やがて滅びてしまう地球を描いた「わたしの星」というパフォーマンスである。「ままごとの新聞」第11号によれば、『わたしの星』製作の背景には全国の演劇部で『わが星』が上演されていることがある。『わたしの星』の高校生たちが取り組もうとしている「わたしの星」も、あるいは、現実に演劇部で『わが星』が上演されるように、「場所と時間」を超えてきたある戯曲を元にしているのかもしれない、と観る者に想像させる。それは、既に滅びてしまった前の「地球」の戯曲でさえあるかもしれない。
 しかし、演劇の宿命に対して、また別の角度から挑み得るのではないか? 『わたしの星』はわたしにそう感じさせた。
 作中、3年生で、文化祭実行委員長のアカネが、他の3年生たちに「誰も観に来ないのにやる意味があるのか」という悩みを吐露する。演劇は残らない。例えば小説や映画のように、いつか誰かが目にする、という可能性がない。しかし、火星へと旅立つスピカは、「わたしの星」の練習を録音したテープを持ち出した。そのテープの複製を、ナナホは持っていた。
 戯曲の公開もそうだが、柴幸男は上演の映像を商品として残すことにも積極的であるように思う。『わたしの星』公演の際にも、『あゆみ』『朝がある』のDVDの先行予約を行っていた。
 暗闇の中で練習の録音を聞きながら「すぐとなりに先輩が、一年生が、ナナホが、わたしが、そこにいるような気がする」と独り語るスピカ。スピカのいない翌日、練習のために再生したテープから流れるスピカの声を聞き、言葉を失った高校生たち。現前性を特質とする演劇の映像や録音が、その十分な代替となることはないだろう。しかし、それを観、聞いた時、スピカや高校生たちのように上演に居合わせた者が、今はないものなのに「そこにいるような気がする」、現前していたそれを現前しているかのように感じることがあるのもまた事実ではないだろうか。そしてまた、その映像や録音を参考にして戯曲の上演を行う者がいれば、そこにはまた新たな演劇が立ち上がる(現実の、全国で上演される『わが星』のように)。新たに立ち上がる演劇と記録された演劇は、『わたしの星』における火星と地球の関係に似ているかもしれない。それはもちろん同一のものではないが、同様に大きな価値がある。「演出そのものを貸し出すようなこと」は「非演劇的な行為」であると「ままごとの新聞」第11号で柴幸男は述べている。戯曲から記録を参照しつつ、新たに立ち上げられる演劇に価値があるのであって、オリジナルの『わが星』の上演を絶対視する必要はないと、彼がそのように考えているようにわたしには思える。
 『わたしの星』は高校生によって演じられ、スタッフにも高校生がいた。高校生と大人の最大の違いは、端的に言って、その変化のスピードである。高校生のようには大人は変わっていけない。裏返せば高校生には大人ほどの安定感がない。これは根拠のない断言ではあるが、一般的な認識でもあるように思う。当日パンフレットの中で、ココを演じた西田心は「漫画家」になりたいと書いている。彼女は作中でも、空気を破壊する、とても重要な役回りを見事にこなしていたが、この『わたしの星』が彼女たちによって再び上演されることはないだろうことを、彼女は暗示してしまっているように思う。2015年に行われる『わが星』の再演でさえ、オリジナルの『わが星』の上演とは何人か違っているキャストとなっている。ぜひ映像(テープでも、かなり趣があるように思うけど)を出して頂いて、『わたしの星』が「そこに」あるような気持ちを味わいたいものである(もちろん再演があれば嬉しいのだが)(オリジナル、再演って、なんだろう。わからなくなってきてしまったが、今回はこれ以上は考えない。)。