行き場としての死者とまだ生まれていない者――諏訪敦彦『風の電話』

風の電話

風の電話

  • 発売日: 2020/10/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

諏訪敦彦監督の『風の電話』を観た。広島の原爆の物語から始まり、父親のいない(おそらく死んでしまっている)高齢出産、性的暴力未遂、難民の物語(日本の入国管理の問題)、そして東日本大震災の傷へと繋がっていくストーリーは、社会的に過ぎ、荒削りに過ぎるようにも見え、モトーラ世理奈の荒削りな演技もあり全体としても荒削りな仕上がりと見えたが、モトーラ世理奈の周囲を固める俳優陣によってなんとか見られるものになっている。映画としての完成度はこのように感じたが、しかし、重い社会的テーマを織り込んでいるために、非常に、考えさせられもする。

原爆や、性的暴力や、「入管」の問題や、東日本大震災(故郷の喪失、家族の喪失、生きる意味の喪失)。これらは映画の中で、行き場のない感情として描かれていた。言い換えれば、誰かのせい、というようには描かれていなかった。それらは降りかかり、しかし誰かによってではなく(性的暴力でさえ、そこから助け出す男の方に焦点が移り、加害者たちは画面外に去り、思い出されることもない)、ただ哀しみを彼らに残す。ヒロインに自死の匂いが付き纏うのも、(単に彼女がモードなエモさを纏っているからではなく、)その行き場のなさが、自身に向かうからだろう。

考えさせられるのは、では、きちんと「加害者」に向き合うことが、では倫理的に正しいことなのか、ということだ。これは難しい。それは、法的な解決に繋がるかもしれない。しかし、それで済むことばかりではない。曖昧な言い方になってしまうが、「加害者」とは人である以上、「被害」と「加害」の関係の解消が、その解消だけで済んでしまうとは、限らない。

その行き場として映画に描かれたのが、おそらく死者の(そして、まだ生まれていない者たちの)空間だった。喪失を、傷を抱える彼らは、死者や、胎内に宿った命に、語りかける。

私たちは、あの日から、いろいろなことに怒りを表したり、希望を抱いたりしてきたけれど、実は、行き場のなさを、見出された「加害者」や「被害者」に様々な形で向けていただけなのではなかろうか。法的な解決(あるいは、「実際的」な解決かもしれない)は無論重要だけれども、きっと、それだけでは済まないから、終わらないのではないか?

映画で彼らは、死者や、まだ生まれていない者に語りかけるが、もちろん返答はない。しかし、それが重要なのだろう。彼らは物を言わない。しかし、生きている者は、死者を、まだ生まれていない者を、思い出し、思い描くことができる。作中には、自死を匂わせるヒロインに「死んでしまったら、誰が家族を思い出すのか」といった台詞があった。ここに描かれた生きることとは、死者に、まだ生まれていない者に、語りかけることなのだ。

そして、返答はない。そのことの意味とは、生きている者が、返答を求めて語りかけ、語ることが、そのまま、物語(ストーリー)となっていくことである。大槌町にあるという「風の電話」で「行方不明」の家族に話しかけるヒロインは、「元気?」などと問いかけながら、もちろん答えはなく、一人語り続け、やがて、生きることを語る。生きる、という結末へ、自らを物語り、物語をその結末へ、導くのだ。

これは、堅固な宗教を持たない生者が、喪失と向き合う生き方の一つの方法だろう。いや、あるいは、喪失とは、堅固な宗教などではどうにもならないような、極めて個人的で、個人的に乗り越えなければならない、重大な問題なのかもしれない。