「先入観」について(小松理虔『新復興論』の「福島県産品」問題に関連して)

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

  • 作者:小松理虔
  • 発売日: 2018/09/01
  • メディア: 単行本
 

  先入観を持つことは良くないことだと気がついた。何とか先入観を持たず、誰とでも対等でありたいのだが、どうすればいいか——そのような問いに出会った。

 「先入観」が良くない結果を招くのは、どのような場合においてだろうか。例えば、何とかという土地にルーツを持つ人間にはこれこれこういう悪いところがあるから、付き合わない方がいい。A型の人間とは相性が悪いから、友達にはならない。この仕事は男性の方が得意だから、男性に任せた方がいい。例えばこういうとき、「先入観」は「差別」や「偏見」と呼ばれる。これらの「先入観」によって、人と人の出会いが阻害されたり、より相応しい役割が与えられなかったりするのだから、人と人の出会いやより相応しい役割を良いものとするならば、これらの「先入観」は、良くない結果を招いていると言える。

 一方で、「先入観」を持つことが、有用に働く状況を想起することもできる。例えば、ある工事現場で、ベテランの作業員が新人に「経験のないやつはこれこれこういうミスをする、気をつけろ!」とアドバイスし、結果としてそういったミスが起こらない。小さな子供の行動パターンに熟知した保育士は、予め子供の行動を制限することで、危険を回避する。もしかしたら、日本で生きてきた者には問題なくとも、そうでない人間にはどうにも回避できない修羅場を、事前の教育が避けさせるかもしれない。新人は、子供は、外国人は——こうした先入観は、では、良くないものだろうか。わたし自身、教壇に立てば、子供たちの躓きやすいポイントを予告したり、子供の避けるべき話題を避けたりしている。これもまた、子供とはこういうものだといった、「先入観」に他ならないはずだが、しかし、この「先入観」は、どうも持つべきものだとされているようである。それが、子供の可能性を潰している可能性もある。それでも、持つべきものだと、感じられる。

 後段で述べたようなものは、「先入観」とは呼ばれにくい。経験からくる予期、あるいは勘などと呼ばれるものだと思うのだが、しかし、経験から、あるいは前知識、情報から、ある個人の属性について、属性以上の判断をすることは、「先入観」に他ならないだろう。では、「差別」や「偏見」と、「予期」や「勘」は、どこがどう違うのか。実は、合理性、有用性の度合いでしかない。「先入観」を持つことが良くないことなのではなく、合理的ではない、有用性のない「先入観」が、良くないのである。

 こうなってくると、合理性、有用性が問われなければならない。100パーセントの合理性というものは存在しないし、ある者にとっては有用なことが、ある者にとってはむしろ迷惑になることもある。「差別」でさえ、小さなコミュニティの中で60年やそこらを生きる人間の一つの人生にとっては、合理的で有用な選択であり得る。だから、個人の感覚ではなく、社会における合意によって、合理性や有用性が判断されなければならない。

 小松理虔『新復興論』は、東浩紀の思想に共感するところの多いわたしには頷くところの多い本であったが、一カ所、ページをめくる手の止まるところがあった。福島県産品を口にするか否かといった問題についてである。

福島県産品を毒物扱いして「放射性廃棄物福島県民が食べて応援すればいい!」などと言葉を発してしまえば間違いなくアウトだが、福島県産品を避けること、不安を持ってしまうことは差別とは言えないし、各々の選択は尊重するほかないと私は思う。(中略)だいたい、科学的には正しいが、その科学的な正しさ以外は許さないというような権威的な社会より、無関心や無知が存在しながらも、自由を謳歌できる社会の方が健全だ。当然、差別は悪である。それを大前提としたうえで、多様な選択を受け止めつつ、いかに広く情報を届けるのかを本書でも考えていきたい。

 ここでは、「放射性廃棄物福島県民が食べて応援すればいい!」という言葉と、「福島県産品を避けること」の間に線が引かれている。ここでは「差別」は無論「悪」の「先入観」を意味し、前者は「差別」で、後者は「差別」ではないようである。しかし、これでいいのだろうか。

 投げかけられる「差別」の言葉は、端的に許されざる暴力だろう。しかし、では、「避ける」という行動は? 小松理虔はここでその線引きの根拠を示していない(ように見える)が、わたしには、そこに大きな差異を見いだせない。福島県産品が科学的に安全であるという前提に立てば、どちらも合理的ではなく、有用性もなく、共に福島県で産業に従事する者には良くない結果を招くものだからだ。

 もちろん、福島や差別の問題を語るにはわたしは不勉強に過ぎるのだが、「差別」と「非-差別」の線引き、この文章で用いてきた言葉を用いれば、合理的で有用な「先入観」と合理的ではなく有用ではない「先入観」の線引きは、「差別」は「悪」であるとの価値観を共有していたって、非常に難しい、ということは確かなようである。初めの問いに戻れば、「先入観」を持つことの善悪を、「先入観」それ自体によって判断すること自体が危険であると、まずはそう答えなければならない。

 ところで。「先入観」とは、どうも未来の予測である。とすれば、これを失うことは、人間に与えられた時間感覚から、未来の部分を失ってしまうことになるのではないだろうか。