映画『返校』がホラー映画である意味を考える

 台湾映画の『返校』を見てきた。原作のゲームはデモ版? だけプレイしたことがあって、デモ版の序盤しかプレイしていないのかもしれないが、雰囲気はホラーだったもののお化けとかは出てこなかったから、雰囲気だけホラーなのかと思いつつ見にいったのだが、割と前半は「青鬼系」(妻が命名)のホラーだった。振り向いたら何かがいる、という展開が繰り返され、「青鬼系」(妻の命名ながら、微妙なネーミングだ……)ホラーとしては優れていないのかもしれないが、その背景が語られ始めると、なかなかおもしろくなる。ゲームはきちんとプレイしていないから、この映画だけについて考えてみたことを、つらつらと書いてみたい。

 背景にある台湾の「白色テロ」、中国語なら「白色恐怖」で、こちらの方がニュアンスが掴みやすいようにも思うが、反共の、言論統制・軍事優先の厳しい時代が戦後の台湾にもあったそうだ。台湾のこともその時代のことも詳しくは知らないのだが、これは私の好きな映画『牯嶺街少年殺人事件』にも政府による拷問のシーンがあり、私の見てきた韓国映画などにもいくつか軍事政権による弾圧の影の映り込むものがあったが、台湾には「白色恐怖」というものが共有された記憶としてあるらしいことを知った。

 そして『返校』にも「思想や正義のために死んでいく人々の中で誰かが生き延びて忘却に抗い語らなければならない」というような主題が見える。戦争や、政治的な弾圧を主題とする物語において繰り返される主題ではあるけれども、それでも感動的なのは、死んだ人々(今、そこには存在しない人々)の物語を語るということが、物語の根源にあるからなのではないかと思う。

 『返校』に現れる権力は、書物を奪おうとする。『返校』の物語は禁書とされた書物を読むサークルの存在を中心にして展開するが、このような「焚書」は、史実として、圧政の下で幾度も繰り返されたことである。そうした歴史について知識があるわけでもないのだが、書物とは、そこにはないものを想像させるものに他ならない。そこには、例えば映像とは大きく異なるものがある。書き言葉は、映像やその他のメディア以上に、読み手によって読まれることを必要とする。映像やその他のメディア以上に、能動的な「読む」ことによってしか成立させることができない、とでも言おうか……うまく表現できているようには思えないが、読まれた言葉はそうして、最も権力に見えにくい形で、浸透していくのだ。あるいは……私たちは言葉を書き写すことによって増やしたり、記憶して、必要なときに再生することができる。それはまさしく『返校』のサークルで行われていたことだが、映像はそうはいかないだろう(しかし、音楽は? 映画中では音楽もまた「禁止」の対象となっていた。そして、登場人物はそのメロディを覚え、ノートに描いた鍵盤で演奏することができた。音楽もまた、言葉のようなところがあるようだ)。

 と、ここまで映像を、どちらかというと言葉(や音楽)に劣るものとして考えてきたが、では、この映画はどうだったか? そこでおもしろいのが、この映画がホラー映画として作られているというところだ。つまり、この映画は、「白色テロ」を、そのままリアリズムによって映像化することをしない――いや、凄惨な拷問など、リアリズムによって描かれたシーンも無論多くあるのだが、しかし弾圧そのものは、多く、「悪夢」――幻想的な暗黒の空間、グロテスクな化け物、血――として、ホラーの文法によって描かれている。私たちは、この映画の大部分において、「白色テロ」を、直接見ることがないのだ。それは幻想的なホラー描写の背後に隠されている。私たちは、彼や彼女に襲いかかる空間や化け物、分身や死者を通して、「白色テロ」を「読む」。

 『返校』がホラー映画なのは、「思想や正義のために死んでいく人々の中で誰かが生き延びて忘却に抗い」“言葉によって”「語らなければならない」という主題を映像で表現する、ある方法なのかもしれない。ホラーとしてはたいして怖くないホラー映画を見、そんなことを考えた。