アラサーになって『グレート・ギャツビー』を読み切る

 

 フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳を読み終えた。この小説は高校生か大学生の時にも読もうとして挫折した記憶がある。それは村上春樹訳ではなく『華麗なるギャツビー』だっただろうが、なかなか進まないプロットと、何やら小難しく感傷的な文章になじむことができなかった。しかし、今度は読み切ることができた。そして、大変な傑作であった。批評めいたことを書くわけにもいかない傑作であった。一つにはやはり村上春樹の作家・読書家・翻訳家としての力があるのだろうが、作中、語り手が三十歳の誕生日を迎えるシーンがある。まさに物語の山場、ギャツビーの物語が転落へと向かっていく、そこで語り手は誕生日を迎える。

 

「ニック?」と彼はかさねて尋ねた。

「なんだって?」

「少し飲まないか?」

「結構だ……ふと思い出したんだけど、今日は僕の誕生日だったな」

 僕は三十歳になっていた。目の前にはこれからの十年間が、不穏な道としてまがまがしく延びていた。

 

 「三十歳」という年齢は語り手にいくらかの衝撃を与えたようで、小説の最終盤にも再び言及される。

 

「(中略)私はね、あなたは正直で曲がったところのない人だと見ていた。そしてあなたもそのことを密かに誇りにしていると思っていた」

「僕は三十歳になった」と僕は言った。「自分に嘘をついてそれを名誉と考えるには、五歳ばかり年を取りすぎている」

 

 三十歳。そういえば先日読んだ村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』で、村上は幾度も彼の執筆歴の始まりの年齢(二九歳)の人間の精神の有り様に言及していたが、彼の「三十歳」へのこだわりは、きっと『グレート・ギャツビー』の語り手譲りのものなのだろう。三十歳——私もまた、そのような年齢を迎えつつあるわけだ。あの頃は読み切れなかったこの小説が、今、こうも傑作として立ち現れてくるのは、私の精神性がようやくこの小説の読者に要求される水準に到達したところだということなのかもしれない(しかしまた、フィッツジェラルド二八歳の時にこれが刊行されたというから、やはり恐るべき天才だ)。