伊藤計劃『虐殺器官』

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

タイトルよりもずっと静かで、そしてタイトルよりもずっとおそろしい小説でした。妙な期待とともに手にとったためか妙な読み方をしてしまい結果としてあまり楽しめず、それは残念でしたね……つまり、あまりおもしろくなかったというか、「まあまあ」でした、というか。ただ、この作家はおもしろいと感じた。調べたところ作者・伊藤計劃氏は若くして亡くなってしまっていたようで、残念で寂しい思いであるのですが、彼の残した小説は読もうと考えている次第です。きっとおもしろいよ。おもしろい匂いがする。

さて、以下読みながら考えたりしたことのメモなのですが……なんでもかんでも高校倫理に結びつける恥ずかしい癖がついているようで恥ずかしい限りです。もっとまともな、「書評」っぽい「文章」を書きたいものです。勉強せねば……。

乾いた小説だ。世界が乾いている、主人公の思想や倫理観が乾いている。生と死の境界がさらに曖昧になった世界。神のいない、神の死んだ物質の世界。現代から進むところの進んだ世界。主人公は無宗教であり「自己」のあまりない相対主義的な哲学を持っており、また作中、人間は“どこまでも物理的な存在“であると言い切る。最終的には、そのような考えに疑問を抱いたのであろうが――結局、他人は「物」で隣人は「人間」ってことなんじゃないかなー。

ところで冒頭のシーン、主人公の回想の中、“ここは死後の世界なの”と尋ねた主人公に母親は諭すように語る「いいえ、ここはいつもの世界よ」というのは実に直接的に生と死の境界に関する思想を表現しているように思える。この回想、というか夢、主人公の言う“死後の世界”は作中度々登場するのだがつまらないしよくわからない(思考停止)。何が言いたいのか…おそらく言いたいことがあるのだろうが…。

「国」「宗教」「民族」。言われてみれば確かに奇妙に感じる、そのような概念を明確にイメージできるということに。主人公を通して筆者はその能力を持った人間をアインシュタインのような天才科学者と並べる。主人公にとってはアインシュタイン的、「天才的」な人々であるということなのだろう。しかし、そのような概念を、明確にイメージ、とまではいかないまでも、特に違和感なく受け入れている自分の姿に気づきちょっと驚いた。

“ある自由を放棄してある自由を得る”と繰り返し語られる。一見自由に見える大衆だが、実は放棄している自由がある、つまり自由の取捨選択を行っている、というのだ。なるほどと思ったし、注意しなきゃいけんのだなと思った。自由と感じていても実は奪われている自由がある、ということなのである。権力はそうやって大衆を掌握するのだ!

タイトルから連想するようなものとは違う、もっと静かな恐ろしさがこの小説にはある。人間は肉に過ぎない、遺伝子によって組み立てられる機械的な存在であるという考え方は、正直タブーであるように思う。というのは、科学によって人間、自分が分析されていくと、まあ言ってしまえば自分という非科学的な概念を失ってしまう気がして。自分という概念大事ですよ。

ところでこの小説の登場人物たちは設定的には白人さんだが実に日本人的だ。アメリカ文学、というかカポーティを二冊読んだあとなので余計にそう感じるのかもしれないが、動作の描写からイメージできる人物は日本人顔である。主人公は無宗教だしね。

読み終えて感じたこと……本当に生と死の境界は曖昧になったのだろうか……そもそも生と死の間に境界などないのではないだろうか。本来曖昧であった、あるいはそもそも存在しなかった生と死に境界線を引いた科学が、この小説の舞台である近未来、さらに進出することで再びそれを曖昧にしたのでは。そんな気がしました。