東日本大震災に際してメモ

画面の向こうの死を見つめながら
僕は温かい夕食を食べる

恐いねと言葉を交わしながら
僕は手元の娯楽小説をめくる

スピーカーから溢れる涙を
僕は聴いて、それから眠る

苦しみとは相対的なものだ。僕の苦しみはあなたにとって気にもならない些細なものかもしれない。あなたの苦しみは僕にとってつまらない日常にアクセントを添える香辛料に過ぎないかもしれない。人の苦しみが人に伝わることはありえない。僕の感じる彼らの苦しみは僕の想像力が生み出したもので、それは僕の想像力を超えることができない。僕の想像する寒さや空腹は僕の甘い日常経験の枠にとらわれる。すべてが「想像を絶する」。

地震の起きた時僕はわくわくしていた。そしてテレビをつける。震源地はどこだ、被害は、規模は。画面に映し出される津波警報。その数値に僕は何を感じただろう。恐怖ではない。あまりに聞きなれた「津波に警戒してください」。どうせ、と思った。10メートルの津波など、「日本で」起きるはずがないと。

次々と映し出される津波の映像で、カメラは、明らかな人の死を避けた。けれどカメラの切り変わった向こうでは、津波がたくさんの逃げようとする車を飲み込み、人を飲み込んだはずだ。画面の中であのトラックの運転手は波を前にただ見つめるだけだった。数人の乗った船が荒れ狂う海に大きく傾き、そして、画面は切り変わった。

隣の県、隣の隣の県で起きた出来事。ぬくぬくと暮らしを続ける僕を報道がひたすら締め付け続ける。どこか遠いところのように感じる被災地の惨状で交わされる親しげな言葉。あまりに多すぎる死と苦しみ。ただただおののき、そして、決してそれらを共有することはできない。

何ができるのか――繰り返される問いだが、はっきり言って何もできない気がする。僕が明かりを一つ消したところで、インスタントラーメンを一つ我慢したところで、小遣いを募金箱に投じたところで、今飢えに苦しみ寒さに凍える被災地の彼らは救われるのか? それは、海に投げ出された人たちに藁を投げるようなものではないか? それで、「僕は彼らの役に立った」と考えてしまって良いのか?

何をするべきなのか。不可能なことが多すぎて、悩めば悩むほど苦しくなる。被災地は近く、少し遠い。僕には力も知恵もお金もなく、祈れども冷たい風は止まない。今まで感じていた無力さとは比べものにならぬ、本当の無力さといったようなものを感じているように思える。

僕は今思考を続けている。想像力の限りを尽くして現場の悲惨さを、彼らの苦しみを現像しようとしている。これが彼らのためになるとはまったく思えないが、自分のために今、たくさんの死を前にした人間の在り方、明日の見えぬ暗闇の中での人間の在り方を、画面越しの映像と想像力でつかもうとしている。今、彼らのためにできることの何もない僕ができることは、ただ現地の惨状に胸を痛めつつ日常に戻ることではなく、悩み続けて、ただ自分の思考を整理していくことだけであるように思える。