夜の朝ドラ——廣木隆一『きいろいゾウ』

きいろいゾウ

きいろいゾウ

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 妻・宮崎あおい、夫・向井理。朝ドラ的な配役である。『純情きらり』のヒロイン宮崎あおいの持っていた離婚騒動以前の圧倒的な「清純」イメージは往年の、そして今なお多数のCM出演の数からも認められるし、向井理もまた『ゲゲゲの女房』のヒロインの夫役のイメージが強い今をときめくさわやかイケメン俳優である。この朝ドラ的夫婦の物語である「きいろいゾウ」は、しかし、エロい。男と女、生と死のエロティシズムの世界。とりあえずの主題は「それぞれが違った問題を抱えて生きている、ラブラブでも隔たりがある」であるだろうが。前田有一の言葉だと「要するにこの映画の言いたいことは、過去やら秘密やらはやっかいものだが二人で頑張って乗り越えた先にはいいものがあるかもよ」。

「じっさい、宮崎演じるこのヒロインは、悩んだときに相談する相手もちょっとおかしい。普通は合コン仲間の男友達とか、優しい元カレとかそんなところだと思うが、彼女の場合は庭に植わったソテツである。世間ひろしといえども、ソテツと人生相談する女がそう大勢いるとは思えない。私が夫なら、ソテツよりも精神科医の前に連れていくと思うが、この映画ではこうした彼女の行動を、かわいらしいアニメ交じりのメルヘンとして描く。」

「当然、人間の感情を深く考察するようなドラマは望むべくもなく、感性で理解する女性向けのライトな作品である。人間を描く力のある廣木隆一監督でなければ、散々な出来になっていた可能性は高いだろう。彼の絵作りが重厚だから見られるが、それでもしょせんはお気楽オンナノコドラマの範疇である。」

 おそらく人気のウェブサイト「超映画批評」に載せられた本作に対する前田有一の批評文である。彼の批評については、概ね同意で、プロットの甘さ、展開の陳腐さと筋書きの怪しさは私もとても気になった。しかし、ジェンダー論は苦手なのでどのように叩けばいいのかわからないのだが、とりあえず、彼の言う「私が夫なら、ソテツよりも精神科医の前に連れていく」「感性で理解する女性向け」は少し考えなければならないのではないか。

 この映画においては、いわゆる「女性的なもの」と「男性的なもの」が執拗に、おそらく意識して描きこまれている。感性と論理、自然と文明。いわゆる精神病的な描かれ方をされるツマとセイカさんという二人の女性と、保護者としてのムコ、アレチさん。自然と会話し、日記には植物や羽を貼り付けるツマと、文字を書く夫。
 こうした固定されたジェンダー観を批判するだけなら慣れてる人間には簡単であるし、違和感なく見れちゃう方なら前田有一的な感想文を書くのだろう。しかしこの映画だと、こうしたジェンダー観でいこう、という方針がしっかりしているので、このジェンダー観をふまえて、その先で観ていくのがおもしろいのではないかと思う。
 男/女に対するこだわりは、単純に原作どおりというのもあるのでしょうけど、「ツマ」と「ムコ」という名前(あだ名)からも読み取れる。例えば作中に出てくる「洋子/ジェニー」は、見てのとおりまったく匿名的でない名前で、それが物語的にも重要になるのだが、「ツマ」と「ムコ」だけは匿名的な名で呼ばれる。二人は妻一般と婿一般の象徴なのである。
なぜこれほど、つまりもはや使い回しとさえ言えるような古いジェンダー観にのっとったモチーフを描きこんでまで、男と女が強調されなければならなかったのか。「エロ」のためである、と私は思う。

 この映画はエロい。そして、エロの観点で見るととても興味深い。
 まず冒頭の、ツマの全裸疾走。「開始1秒で宮崎あおいの全裸走りがみられる史上初の映画」と前田有一が言うのだからそうなのであろうが、しかし、このシーンはエロくない。主観的な判断になってしまうが、おそらく多くの方がエロくないと感じるのではないか。「もしもエロティックな行為に、侵犯の要素、さらには侵犯を成り立たせている暴力の要素が欠如しているならば、エロティックな行為は絶頂に達するのがますます困難になる」と『エロティシズム』の中でバタイユは言う。すなわち、禁止に対する侵犯という要素がなければエロくないのだ。
 しかし、夜のツマとムコのセックスはエロい。おそらくこのエロさは朝ドラ的俳優陣の演じる朝ドラ的なシーンと並べられることでより際立っている。エロくないセックスシーンというものはなかなか見られないのだが、この映画におけるセックスの場面は、昼間のシーンでのにこにことした典型的仲睦まじい夫婦イメージとのギャップだけでなく、結婚生活の中のセックスというよりは貪るような恋人どうしのセックスとして、ある程度意識的にエロく描かれているように思う。なぜかを考えると難しいが、あるいは二人共に円満な家庭生活への障害となるものを抱えていることがあるのかもしれない。そうした後ろめたさのようなものを抱えていることが、二人にエロいセックスをさせているのではないか。
 他にも、眠っているツマのもとへ少年のやってくるシーンは、多くのタブーを孕んだエロシーンであるし、ムコが不倫相手に裸の背中を見せつけるシーンも、その場に不倫相手の旦那がいるという倒錯っぷりである。この映画を観るなら、楽しむべきはドラマではなくエロなのである。

 

 

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感想

 

宮崎あおい! ということで観てきました。向井理がエロかった。宮崎あおいは初っ端からヌードで走り回っていて、おぉ…って感じだったのですが、良かったです。以下メモみたいな感想。

基本的に宮崎あおい演じるツマと、向井理演じるムコの物語ですが、むしろそれぞれが違った問題を抱えて生きている、ラブラブでも隔たりがある、というのがポイントだったのかもしれませんね。ツマはものすごく「女性的」に、ムコはものすごく「男性的」に描かれているのがおもしろい。例えばツマは精神病者っぽく描かれるし、日記には文字は書かず葉っぱや鳥の羽を貼り付けるだけ。ムコは作家であり、ツマの保護者であり、日記には文字を書く。近所の老人アレチさんの妻、セイカさんも痴呆症でかつ雨との関係が深かったりと、女性=自然という昔ながらの見方や精神病は女性のもの、みたいな言説を思い出す設定になっています。政治的にどうと言うよりは、きっと敢えてですし、生と死というテーマもあって、むしろエロティシズム的な映画だったのでは、と思いました。確かにこの映画はエロい。日の下の日常の宮崎あおい向井理からは朝ドラのごとくエロの気配がないのに、夜の二人のセックスは最高にエロい。結婚生活の中のセックスとは思えないエロさ(世の夫婦がどんなセックスをするのか僕は知りませんが…)。深いこと考えなくても、ストーリーに不満があっても、単純にエロが美しいという点でこの映画には観る価値があったなと思いました。宮崎あおいは小学生くらいの頃にも裸で映画に出てて、それと比べて成長したなぁ……という楽しみ方もできますよ! あと宮崎あおいの病みっぷりメンヘラっぷり(演技ね)はすばらしいものがあるのでメンヘラを目指している諸君は参考にすればいいと思います。

生と死について。動物や虫や植物と会話できるというツマには過剰に「生」があり、「ナイ姉ちゃん」「足利さん」の影を背負うムコには過剰に「死」があったということなのでは、と僕は読んだのですが、そううまく二項対立にはなっていない。画家との会話の中で、なんとムコはツマとの結婚を決めた時点で死から羽ばたけていた、と語られる。これがほんと不思議で、「お前ナイ姉ちゃんの死めっちゃ引きずってたやん!」って感じなのですが、何か見落としたかもしれません。ここまで矛盾してるとなると、僕の頭の方が怪しい気がしてくる。映画はすぐに見返せないのがほんとアレですよね。
ツマはいつのまにか動植物の声を聞かなくなります。あるいは過剰な「生」が取り払われるという一種の解決だったのかもしれません。わからない。

月について。満月はけっこう重要な何かの象徴になっていると思うのです。タイトルの「きいろいゾウ」に大きく関わるものですからね。ツマの生理が満月といっしょにやってくる、心も体も月に支配されている、というのは、まあとてもベタな設定で最近読んだ本だと村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の妻もそんな設定だった気がするのですが、まあそれはいいとして、この映画の中で月とは何であったのか。
本作中では月は、「欠ける」ことが良いことであるように言われます。ツマが満月を怖れ(畏れ?)ているからです。しかし、アニメーションで描かれる「きいろいゾウ」においては、満月は願いを叶えてくれる存在ですし、ツマも最後には満月に願い事をします。そして叶います。そして一件落着のハッピーエンド。月、基本的に良いものだが怖れ(畏れ)るべきもの、みたいな感じなのですかね。それだとやはり、生理のようなものなのかもしれない。でも、それだけ?

あと、ツマとムコ、という匿名的な名前も少し気になりますよね。ツマとムコというのは二人それぞれの苗字から取った呼び名なのですが、洋子(ジェニー)については、名前が意味を持つのに、なぜツマとムコはツマとムコなのだろう。 ジェンダーを強調したかったのですかね。

なんかテンションの高い感想ですね……。以上でした。実はちょっとプロットの甘い映画だった可能性もあるなぁと思ったりもしましたが……何か閃いたらもう少しちゃんとした文章を書きたいものです。原作も読んでみたりしたいものです。けっこう違う気がするので。