私たち演劇(?)――本谷有希子×飴屋法水@VACANT

8月9日、VACANTで本谷有希子×飴屋法水を見てきた。思ったことなどのメモ。ちょっと時間を空けすぎて、かなりうろ覚えかつ、事実関係も怪しい気がするので読む方は注意。

私には単純に退屈な時間が長く、見ているのがなかなかつらい演劇だった。物語らしい物語のある演劇ではない。まず、本谷有希子の子供や結婚生活に関するような私的な話、と思われる話が飴屋によって「私は本谷有希子です」という形で語られる。それから、赤子に言葉を教えずに育てたところその赤子のすべてが死んだというフリードリヒ2世の実験の話や、くるみ(飴屋の娘)の幼い頃に用いていたという私的な(非社会的な)言葉(正確に記憶していないが、例えば「地面」を「どん」と呼ぶというような、そういう私的な名付け。)のエピソードや、日本にいる外国出身者と見られる者たちのエピソードの投影などが挿入される。最終的には、同じ言語で話しているのに「違う言語で話していた」というように感じられたというような話になり、飴屋の「◯◯(名前)の〜〜(「寂しい」などの言葉)は〜〜なんだよね」といった確認を繰り返すシーンなどはエモーショナルで感動的ではあった。演劇として(?)はつかみにくいが、メッセージは受け取りやすい、そういう演劇であったと思う。

退屈であった、という感想は、ただ語る場面がかなり長かったように感じられた故のものだろうが、しかしおもしろさももちろん感じて、それはまず第一に本谷有希子の、飴屋法水の、雑な言葉で表せば(ここまでもかなり雑だが)コンテンツ性というか、キャラクターというか、そのおもしろさである。彼らはプライベートを語る(ように見える)。そこに、私小説的なおもしろさがあった。

私の見てきた限り(ほとんど見ていないのだが)、家族として暮らす三人が出演し私的なことを演じ語るように見えた『教室』のように、飴屋は自身のこと(のように見えること)も演劇にするが、他者(共同製作者など)に取材を行い、聞き出した私的なことを織り込んで演劇を作っている、ように見える。ように見える、というのは実際にはどれほど事実として私的なことなのか、見るだけの人間には判断しようがないからそう書かざるを得ないわけなのだが、例えば岸田國士戯曲賞作『ブルーシート』は福島の県立いわき総合高等学校の生徒たちと飴屋法水がやりとりをしながら書き下ろした戯曲であるとされているし、山下澄人の小説を原作とし、山下澄人も役者として出演した『コルバトントリ、』では、物語の途中で飴屋が舞台に出てきて「山下澄人さんです」と紹介し、私的なことを話し始める、というシーンがあった。

今回の本谷有希子×飴屋法水もそうで、虚構のように語られる部分と、本谷と飴屋が、本人として、私的なことを語り合っているかのような部分とがある。無論、両者は明確に区別できるようなものではないが、その私的に見える部分は確かに古き私小説的な、スキャンダラスなところがあり(本谷が旦那さんと別居しているなど、驚いたのですが、本当なんでしょうか?)、古き私小説のようにおもしろい。

そしてさらにおもしろいのが、今回のものも含め、飴屋の演劇は、決して私小説ではない、というところだろう。もちろん小説でなく演劇だからというわけではない。そこには、私小説のように、中心的存在となる「私」は存在していない。彼らは確かに私的なことを語り、私小説のような楽しみ方ができるのだが、しかし「彼ら」というように、「私」は複数存在している。

小説は基本的に一人によって書かれ、私小説と呼ばれるものは基本的に、一人の人物に焦点を置いて語られるものだ。しかし、演劇は基本的に複数人によって作られる。テキストを書くのは一人でも、複数人によって演じられたりする。例えば、『教室』においては、作演出・飴屋法水とクレジットされていても、飴屋の私的領域に属する人々が、演者としてそのまま登場し、語る。そのとき、そのうちの誰かに焦点が置かれるということは、少なくとも小説ほどには起こりえない。演劇においては、観客は例えば娘・くるみだけを見て、飴屋のことを一切見ない、ということも原理上できてしまうわけで、ある意味必然的に、複数の「私」が、私小説にように私的なことを語るということになる。私の見てきた中で飴屋のしていることは、いわば「私たち演劇」(無論ここで「私たち」は一つの主体ではなく、複数の主体を意味する)とでも呼ぶべきものなのではないか、という気がする。

そして、ここまで本谷有希子×飴屋法水と呼んできた、題名のない本作の主題(メッセージ)は、これまでの飴屋のしてきたことと密接に結びついている。飴屋の演劇においては、飴屋自身を含め、複数の私が私的なことを語る。その私的なことと私的なことの摩擦、ぶつかり合い(調和、とは呼びがたい)が、飴屋の演劇を立ち上がらせている。その私的なことと私的なことは、まるで「違う言語で」あるかのようにぶつかり合う。劇中で飴屋は、「伝わるかもしれない」の「かも」について話しているのだと、熱く語ったが、単純に見れば読み取れる本作のメッセージの一つとして、「違う言語」で話しているようでも、「伝わるかもしれない」その「かも」にかけるべきだ、というものがあった。飴屋が本谷にそれを説く、といった構図であった。このようなメッセージはまさに、複数の私が私的なことを語りぶつかり合うような、近年の飴屋の演劇の手法(あるいはその製作手法)から当然導き出されるテーマであると言えるだろう。2