十年後と一年後——『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(公式サイト)、アニメ版についても感想を書いてたりする(こちら)のですが、映画になっても相変わらず惜しい、でも号泣。見れば見るほど白けちゃうんじゃないかって感じのダメさですが、パッと見すごく泣ける。泣きたい時に泣こうと思って見るのが一番賢い楽しみ方かもしれません。

アニメ版では一話ごとに物語が進んでいきましたが、劇場版では初っ端からめんまを背負ったじんたんの秘密基地へのダッシュから始まります。アニメ最終盤、最後の隠れんぼ直前のシーンです。そこから、十年前、十年後、そして十年後から一年後のシーンが代わる代わる描かれる。この描き方は、アニメ版を見たか観客がストーリーを把握していることを前提としている、まさに物語の「一年後」を前提としたものだったのでしょう(実際には、アニメから二年たっていますが。そこも惜しい。)。めんまの死んだ十年前、めんまと最後の別れをした一年前の記憶が一貫した物語としてではなく場面場面で想起されるというのは、我々の記憶の在り方と同じものです。我々がアニメ版『あの花』を思い出すように、劇場版もまた『あの花』の物語を思い出しているのです。アニメ版では「secret base 〜君がくれたもの〜」やポケモン(的なもの)といった小道具によってある一定の年齢層を狙い撃ちにしていましたが、劇場版は、一定の年齢層というよりはアニメ版を見た層を狙い撃ちにしていると言えるでしょう。アニメ版を見た人間の共感を呼び起こすことに特化しているのです。

逆に、ストーリーを把握していない人間には本作はまったくの駄作として映るのではないでしょうか。物語のわかりにくい複雑な構成で、しかも泣けるシーンを随所に持ってくる。劇場版は感動的なシーンのみで構成されているといってもいいかもしれません(そこも、記憶の在り方に似ている)。それぞれのシーンで泣けるには泣けるのですが、劇場版だけではキャラクターたちの背景もほとんどわからず(それぞれの行動根拠は暗示されるに留まり、アニメを見た人間にはわかるが、劇場版だけの人間にはちんぷんかんぷん)、なんか勝手に泣いてる、みたいな感覚に陥ってもおかしくない。実際、冷静になってみると演出がダサく、劇中「secret base」は、歌が下手というのもあるのですが、タイミングも微妙で僕は白けたし(ここで泣け!という気持ちはわかるのですが、もうちょっとやり方があったのでは)、アニメ版以上に押し出された「生まれ変わり」というキーワードとラストの蛇足的めんまのモノローグで「駄作だった」という印象が固められてしまった。

生まれ変わり、アニメ版でも確かに触れられていましたが、劇場版はめんま成仏(笑)から一年後ということで、この次めんまがどうなるか、をどうしても描かなきゃならなかった(描かなくてもいいんですけどね)ということもあるのでしょうが、妙に押し出されている。ここには「死は、別れは喪失じゃない(「何も失ってない」というじんたんの台詞、これは泣けるかも)」というとこに繋がっちゃうのでしょうが、正直、「生まれ変わり」が希望になるってのがもう陳腐すぎるし、陳腐なのにリアリティもない。めんま成仏の一年後の夏、じんたんやゆきあつは彼女との別れを超えて前向きにめんまへの手紙を書いているのに対し、あなるやぽっぽは後ろ向きなまま、彼女への思いを消化しきっていないという激アツな描写があって、じゃあ最後には「みんな」が前向きに、というオチだと思ったしそれが一番ベタな泣かせ方な気もするのですが、「生まれ変わり」の導入や、あなるが結局後ろ向きなまま(めんまの願い(超平和バスターズはみんななかよし)を引きずってじんたんに告白できない)終わることで、どうも煮え切らない。この煮え切らなさ、綺麗に終わらず、消化しきれない部分を残したまま物語が閉じることへの既視感……ここでもアニメ版を思い出すわけです。あなるやぽっぽやつるこのエピソードの追加や掘り下げはありましたが、それでも消化しきれないまま残るものがある。アニメ版といい、劇場版といい、ここまでくると、狙ってやってるのか? という気がしないでもありません。もしかしたら我々は、人の死を簡単に思い出にしてしまえないというメッセージなのかもしれませんね(下手なだけだと信じたいですけどね)。そういえば劇場版には「前を向けばきっと会える。」というキャッチコピーもついていまして、これは「生まれ変わり」に対応しているんでしょうが、そうやって生まれ変わりを待つようなことが、死と向き合い死を取り込んだ者の態度として正当なのかは、気になるところです(宗教の話)。

まとめるとあなるがめちゃくちゃかわいかったです。あと武甲山のかっこよさ。